一部PRあり

19世紀 日本 音楽年表(江戸時代・鎖国・幕末・明治時代の日本の音楽)

音楽年表

19世紀 江戸時代・鎖国・幕末・明治時代

スポンサーリンク

(各記事共通・免責事項等)
・当サイトは独自コンテンツ(個人ブログ)です。当ブログでも、統計や指標については一部引用などもふまえデータの客観性と公平性に努める所存です。ただし、記事および当サイト全体としてはあくまで個人的見解をふくむ個人ブログでです。ご利用にあたっては読者各位の自己責任でご判断いただくようお願い申し上げます。
・音楽の自作プレイリスト(編集著作物)著作権法、など。
詳しくは「プライバシーポリシー・免責事項(privacy policy page)」をご参照ください。

19世紀 江戸時代・鎖国・幕末・明治時代

西暦1801年から西暦1900年まで
:江戸時代(1603年–1868年)の音楽3)
:鎖国期(1639年–1854年)の音楽3)
:幕末(1853年–1868年)の音楽
:明治時代(1868年–1912年)の音楽1)

江戸時代(1603年–1868年)の音楽3)

鎖国期(1639年–1854年)の音楽3)

日本音楽史年表のできごと

1814年 清元節(きよもとぶし)が創設(語り物・浄瑠璃の流派)

19世紀文化(1804年~1818年)清元節(きよもとぶし):
豊後節系統の叙情的で艶っぽい風情を濃厚なものとし、これに長唄の影響を受けて歌うような声ののびやかさや節回しの面白さを加味したもの(参考)ウィキペディア-清元節

日本音楽史年表のできごと

1820年 長崎出島でオランダ人がオペレッタを上演

日本音楽史年表のできごと

1826年 シーボルトが江戸にピアノを持参

日本音楽史年表のできごと

19世紀前半 宇田川榕庵が西洋音楽用語を翻訳

宇田川榕菴(うだがわ ようあん)参考ウィキペディア

★19世紀中頃~:日本音楽史における近代(前期)の音楽

★19世紀中頃~:日本音楽史における近代(前期)の音楽

幕末(1853年–1868年)の音楽

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)ペリー黒船
(いつ?どこで?だれが?なにを?なぜ?)5W1H
5W「いつ?When?」「どこで?Where?」「だれが?Who?」「なにを?What?」「なぜ?Why?」
1H「どのように?How?」
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時に三浦半島浦賀沖にペリー黒船が現れ、停泊。
1853年7月14日(嘉永6年6月9日)久里浜海岸上陸現在のに現れ

(ちなみに、先方は、幕末の長門国萩藩(山口県萩市)が舞台。松下村塾
1842年(天保13年)先代に始まり、1857年(安政4年)に吉田松陰が主宰。のちに明治維新などで活躍する高杉晋作ら松蔭門下生らの青春群像を描いた名著。

日本音楽史年表のできごと

1855年 幕府が長崎で洋式軍楽を導入

明治時代(1868年–1912年)の音楽1)

明治維新

:明治時代(1868年–1912年)の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

1870年(明治3年) 太政官内に雅楽局設置

※雅楽局(ががくきょく)設立以降幾多の組織改編を経て現在の宮内庁式部職楽部※なお楽部は雅楽・洋楽兼修(参考)ウィキペディア-雅楽

雅楽局略年表(~宮内庁式部職雅楽局までの組織変遷)
1870年(明治3年)雅楽局
1871年(明治4年)式部寮雅楽課
1884年(明治17年)式部職
1889年(明治22年)宮内省式部職雅楽部
1907年(明治40年)宮内省式部職楽部
1949年(昭和24年)宮内庁式部職楽部
~現在に至る

日本音楽史年表のできごと

1871年(明治4年) 陸海軍の軍楽隊が発足

日本音楽史年表のできごと

1871年(明治4年) 第1回海外女子留学生5名として永井しげ(瓜生繁子)らが米国音楽留学

※第1回海外女子留学生5名:黒田清隆(くろだきよたか)による明治初の本格的(約10年!)の官製留学。同留学については各5名のウィキペディア等を参照※以下各リンク
上田悌子(うえだていこ)※新潟・東京出身。15歳で海外女子留学生として渡米。病気のため早期帰国。しかし明治初期に米国留学を経験された海外留学生の先達の一人。
吉益亮子(よします りょうこ)※東京出身。15歳で海外女子留学生として渡米。病気のため早期帰国。しかし明治初期に米国留学を経験された海外留学生の先達の一人。
・山川さき(咲子、捨松)のち大山捨松(おおやますてまつ)※会津若松出身。満11歳で海外女子留学生として渡米。米国名門女子大学セブンシスターズのヴァッサー大学(Vassar Collage)卒業。学士号(Bachelor of Arts)を授与される。帰国後は幼少からの渡米により日本語を忘れており、また文部省の支援もなく、就職等に苦労。のち大山巌と結婚。「鹿鳴館の花」として明治期の鹿鳴館外交を支えた。また看護学校など日本の女子教育にも貢献。
・永井しげ(旧姓益田しげ、のち瓜生繁子)※東京出身。9歳で海外女子留学生として渡米。ホームステイ先のアボット家で早くから米国音楽教育にふれる。ヴァッサー大学音楽科(School of Music, Vassar College)ピアノ演奏コース入学。当時同大学音楽科は3年制だったため山川捨松のような学士号は授与されなかったが優秀な成績で音楽科を卒業(卒業証書授与)。ピアノのみならず声楽など幅広い音楽教育を修養。帰国後1882年(明治15年)3月2日付文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校)教授に就職。後述の幸田延(こうだのぶ)ら音楽取調掛の第一期生の指導を始め、明治期の日本の近代音楽教育の先駆となる。
・津田うめ(津田梅のち津田梅子(つだ うめこ))※東京出身。8歳で海外女子留学生として渡米。幼少からホームステイ先でピアノや英語などを学ぶ。私立女子大学アーチャー・インスティチュート卒業。帰国後は幼少からの渡米により日本語を忘れており、また文部省の支援もなく、就職等に苦労。以後2度目の留学など紆余曲折を経ながら近代日本の女子教育に奔走。女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者、日本における女子教育の先駆者(参考)ウィキペディア-津田梅子

(備考)山川捨松と永井しげが在学したヴァッサー大学はセブン・シスターズ(英語 Seven Sisters)と呼ばれた米国北東部名門女子大学7校(参考)ウィキペディア-セブン・シスターズ(大学)

日本音楽史年表のできごと

19世紀後半(明治5年~明治17年頃)「文楽」(人形浄瑠璃)の流行
:1872年(明治5年)文楽座(大阪松島新地)
:1884年(明治17年) 御霊文楽座

明治文楽:
三代目文楽軒は、明治5年(1872年)、大坂松島新地に劇場を建て、文楽座と命名した。だが彦六座など対抗する劇場ができたため、明治17年(1884年)、文楽座は御霊神社の境内に移り、「御霊文楽座」として全盛を誇り、他の人形浄瑠璃の劇場は次々と潰れていき、唯一の人形浄瑠璃の劇場となる。以降、人形浄瑠璃を指して「文楽」と呼ぶことが多くなっていった。

日本音楽史年表のできごと

1874年(明治7年)式部寮雅楽課(前雅楽局)西洋音楽兼修

※1874年(明治7年)式部寮雅楽課(元雅楽局)以来日本政府の雅楽を担う楽師は西洋音楽も兼修となる(参考)「明治30年の宮内省式部職雅楽部」塚原康子, 東京芸術大学(※個人的感想:明治期より現在の宮内庁式部職楽部まで雅楽・洋楽(儀典音楽)を兼修!されているとのこと。改めて楽師の皆様の高度な技能に驚嘆するとともに、私見ながら雅楽継承をとりまく諸問題の懸案事項の一つとも考える。)

日本音楽史年表のできごと

1876年(明治9年)・1888年(明治21年)雅楽『明治撰定譜』選定

※明治撰定譜(めいじせんていふ):1876年と1888年の2回実施。太政官雅楽局により選定された雅楽の曲目と楽譜。雅楽の演目は基本的にこの明治撰定譜でまとめられた統一楽譜集を基礎とし、以て古来からの日本の雅楽の伝統を現代に伝えている。

世界の音楽史年表のできごと

1877年 蓄音機の発明

大衆音楽前史、蓄音機の発明

19世紀半ば 蓄音機の発明(略年表) 録音・再生機器の発明の歴史notes
1857年録音機の発明:フォノトグラフ(フランス語 phonautograph)
:フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル (Édouard-Léon Scott de Martinville) が発明したフォノトグラフ。フォノトグラフ (phonautograph) とは、音声を波形図に変換して記録する装置。音を記憶する装置の最古ともされる。ただし、録音のみで再生は不可(波形を記録できたが、音として再生はできず)。(参考)ウィキペディア-フォノトグラフ
1877年蓄音機の発明(録音再生機):フォノグラフ(アメリカ英語 phonograph、イギリス英語 Gramophone)
:1877年12月、トーマス・エジソンがフォノグラフ(蓄音機。とくに初期の蝋管(ろうかん)式のもの)を発明。音による空気の振動を針先から回転する円筒軸に巻いた錫箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式フォノグラフを発明した(ティン・フォイル一号機の製作)(参考)ウィキペディア-蓄音機
1887年円盤式蓄音機の発明
:エミール・ベルリナー(Emile Berliner)は亜鉛円盤に横揺れの溝を刻む蓄音機を開発して円盤(ディスク)式蓄音機が誕生。
1888年蓄音機の改良
:1888年にグラハム・ベルの研究所でティンター(Charles S. Tainter)らによる蓄音機の改良が試みられた。錫箔に代わり、記録媒体に蝋を染み込ませたボール紙の円筒(ワックス・シリンダー)を用いるものだった[3][4]。エジソンも蝋管を用いる改良機を開発。
1895年ゼンマイ式フォノグラフの発明。
:1895年から1996年にかけてゼンマイ(Spring motor)式フォノグラフが開発された(エジソン・スプリングモーター式蓄音機)。

※追って別稿に移動?

日本音楽史年表のできごと

1879年 文部省音楽取調掛設置

※音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)(参考)ウィキペディア-音楽取調掛
※伊沢修二(いざわしゅうじ)氏らが設立に奔走されたと伝えられる。(参考)ウィキペディア-伊沢修二

日本音楽史年表のできごと

1880年(明治13年)メーソン先生来日

※ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason)アメリカ合衆国の音楽教育者。1880年(明治13年)3月から1882年(明治15年)7月まで文部省音楽取調掛で西洋音楽を指導。明治初期に日本政府(伊沢が招聘したお雇い外国人の御一人。のちに唱歌を作曲する山田耕筰ら音楽取調掛の一期生らを真摯に音楽指導したと伝えられる。(参考)ウィキペディア

(※試験も含むがメーソン先生は「日本の唱歌の恩師」ともいえる音楽教師。1879年『小学唱歌集』を伊沢修二先生と共同で編纂。唱歌は和洋折衷により日本人が作曲した邦楽(山田耕作先生『荒城の月』など)。が、唱歌の一部の曲(例えば『蛍の光』など)にはスコットランド移民系の米国人だったメーソン先生が幼少からの愛聴歌であったスコットランド民謡を当時の日本の真摯な学生達にために音楽教材に選曲したことも影響しただろう。)

日本音楽史年表のできごと

1881年(明治14年)芝公園紅葉山に能楽社結成

※芝能楽堂(参考)ウィキペディア-芝能楽堂。「能楽」という言葉が一般化したきっかけとも(参考)コトバンク-能楽社

(能楽の語源は先の江戸時代文化・文政期(1804‐30)浅野栄足『能楽余録』があったが、この語が一般化したのは1881年能楽社設立がきっかけとされる。『能楽社設立之手続』〈前田斉泰ノ意見ニテ,猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ,能楽ト改称シ,因リテ能楽社ト名付ケ……云々〉。維新の動乱で衰退した能を援護し,興隆させようとする人々は,こぞってこの名称を用いたとのこと(参考)コトバンク

日本音楽史年表のできごと

1881年(明治14年)『小学校唱歌』刊行

文部省音楽取調掛編纂『小学唱歌集 初編』小学校師範学校中学校教科用書、明治14年11月24日付、高等師範学校付属音楽学校発行。同、『第二編』明治16年3月28日、『第三編』明治17年3月29日。

1882年(明治15年)3月2日瓜生繁子(うりうしげこ)文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校)教授に就職。幸田延(こうだのぶ)ら音楽取調掛の第一期生の指導を始め、明治期の日本の近代音楽教育の先駆となる。(リンク等は前掲)

日本音楽史年表のできごと

1887年(明治20年)東京音楽学校 (旧制)設立

※東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身。

日本音楽史年表のできごと

1888年(明治21年)小中村清矩『歌舞伎音楽略史』

※小中村清矩(こなかむら きよのり)は幕末・明治期の国学者。また帝国大学(現東京大学)教授や貴族院議員として古典講習科設置に尽力されるなど国学・近代日本史学の祖を築いた人物。律令・官職制度など多方面の古典を研究・著書多数。日本音楽史との関連では明治21年小中村清矩『歌舞伎音楽略史』が日本音楽の通史を試みた先駆的文献とされる。(参考)ウィキペディアコトバンク国会図書館HP小中村清矩等より筆者まとめ(※なお左記国会図書館HPの関連資料から小中村著書を探せる。『歌舞伎音楽略史』など一部書籍はデジタル閲覧可。詳しくは国会図書館HP参照。)

日本音楽史年表のできごと

1889年(明治22年)東京音楽学校卒業生幸田延が海外留学(~95)

※幸田延(こうだのぶ)(参考)ウィキペディア-幸田延

幸田延(こうだのぶ)先生明治・大正・昭和(戦前)音楽活動略年表
1870年(明治3年)4月19日東京下谷区仲御徒町(現上野周辺)生誕。幼少期より三味線・筝などを習う。
1876年(明治9年)東京女子師範学校附属小学校(現お茶の水女子大学付属小学校)入学。初代・山勢松韻に箏曲を師事。
1881年(明治14年)合唱指導で東京女子師範学校附属小学校に来校したメーソン先生と出会う。週末メーソン在勤中の音楽取調掛へ通いメーソン・中村専・瓜生繁子らにピアノを習う。
1882年(明治15年)東京女子師範学校附属小学校を卒業。音楽取調掛編入。音楽取調掛で伝習人となる。
1882年(明治15年)7月メーソン先生アメリカへ帰国。
1883年(明治16年)フランツ・エッケルトにヴァイオリンを師事。
1884年(明治17年)7月音楽取調掛卒業(第1回卒業生)
1884年(明治17年)8月~音楽取調掛卒業後は同研究科でお雇い外国人助手などを務める。
1887年(明治20年)音楽取調掛が日本唯一の音楽の専門教育機関として「東京音楽学校」へ改組。延は初代外国人教師のオーストリア人ルドルフ・ディットリヒにヴァイオリンを師事。ディットリヒ先生に海外留学を薦められる。
1889年(明治22年)4月~1895年(明治28年)11月:幸田延第1回文部省派遣留学生として米国・ウィーンへ音楽留学(計6年間)1889年4月:アメリカ留学(ボストン・ニューイングランド音楽院(1年間)
1890年:オーストリア留学(ウィーン楽友協会音楽院)ヴァイオリン、ピアノ、和声学、対位法・作曲などを学ぶ。
1895年:ウィーン音楽院在学中に日本人による初のクラシック音楽作品ともされる「ヴリンソナタ第1番変ホ長調」(3楽章・未完、楽譜を池辺晋一郎が補筆)を作曲。
1895年(明治28年)11月帰国:東京音楽学校助教授就任。1899年(明治32年)教授のち首席教授。1909年(明治42年)まで約14年間同校で音楽教育に従事。※幸田延先生の東京音楽学校教授時代には以下の音楽家を育成された:
瀧廉太郎(たきれんたろう)※1894年(明治27年)入学
三浦環(みうら たまき)※1900年(明治33年)入学
久野久(くの ひさ)※1901年(明治34年)入学
本居長世(もとおり ながよ)※1902年(明治35年)入学
山田耕筰(やまだこうさく)※1904年(明治37年)入学
・萩原英一※入学年不明
中山晋平(なかやま しんぺい)※1908年(明治41年)入学、ら
1909年(明治42年)欧米視察(合唱など)
1912年(明治45年・大正元年)東京府麹町区紀尾井町の自宅「審声会」開催。山本直忠[などにピアノ指導。以降、東宮職御用掛として皇族方に音楽を教授。
1918年(大正7年)10月17日「洋洋楽堂」
1937年(昭和12年)帝国芸術院設立時女性初音楽関係者として帝国芸術院会員。
1938年~1945年戦時中のため音楽活動が困難。
1946年(昭和21年)6月14日ご逝去

日本音楽史年表のできごと

1889 山葉風琴製造所設立

1889年設立「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうしょ)」とは、山葉寅楠(やまは とらくす)1851‐1916)により設立された合資会社(のちの「日本楽器製造株式会社」現在の「ヤマハ株式会社(YAMAHA)」の前身)。
※風琴(ふうきん)とはオルガン(とくにパイプオルガン)のこと。

オルガンとは?
(欧米)organ:パイプオルガン
(日本)オルガン:パイプオルガン+リード式オルガンなどの総称
(参考)ウィキペディア-オルガン
※オルガン(英語 organ)とは、加圧した空気を鍵盤で選択したパイプに送ることで発音する鍵盤楽器(パイプオルガン)のこと。現在はパイプオルガンをもとに発達したオルガン楽器類の総称。

風琴(ふうきん)とは?
明治から昭和初期までのオルガン、アコーディオンなどの総称。
(参考)ウィキペディア-オルガン

1851(嘉永4)年4月20日山葉寅楠生誕(山葉風事製作所・日本楽器製造株式会社(のちのヤマハ株式会社創業者1916(大正5)年8月8日没)
1887年静岡県浜松市浜松尋常小学校の壊れたオルガン修理を機にオルガン製作を決意・創業開始
1889年(明治22)年浜松で合資会社「山葉風琴製造所」設立
1897年(明治30)年10月12日「日本楽器製造株式会社」設立(資本金10万円)山葉寅楠初代社長就任1987(昭和62)年10月1日「ヤマハ株式会社(YAMAHA)」(社名変更(創業100年目)

テキストのコピーはできません。