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音楽年表 日本

音楽年表 音楽年表

日本音楽史年表
1.日本音楽史年表※先史時代~現代(邦楽の通史)
2.日本のポピュラー音楽年表※明治・大正・昭和の流行歌や歌謡曲など(年代順ヒット曲)
邦楽のヒット曲などのポピュラー音楽年表について、当サイトの関連記事をまとめています。

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約46億年前~地球の音?

音の起源? origin of sound/sonar – roots of history of music (temp)
46億年前~地球誕生
地球誕生~地球の音?(自然音など)

とらナイヅ寅
とらナイヅ寅

地球の音とかえらい大昔ですがそれは…

さるナイヅ山
さるナイヅ山

いやスマン。まだ未定稿なんじゃよ(まあ、日本の音楽史も縄文時代ぐらいまでは土取利行さんらのご研究もあるのでふれたいのじゃが。なにぶん遅筆でのう。てかそっとスルーしておくれよ泣、辺境ブログなんだし…( ノД`)シクシク…)

約700万年前頃~人類の音?

約700万年前~600万年前 人類誕生(猿人)

人類の出現年代
分子生物学による化石人骨の研究の進展によって、人類の出現は約700万年前とされるようになっている(2018年現在)。中略)700万年前説は、2001年にアフリカのチャドで猿人の化石人類であるサヘラントロプスが発見されたことによる。

(出典)世界史の窓-人類の出現年代 より筆者抜粋・引用

約330万年前~旧石器時代の音?

約330万年~旧石器時代

(備考)旧石器時代っていつ?(大まかな時期)

約330万年から約200万年前※~前期旧石器時代
約30万年前~中期旧石器時代
約5万年前~後期旧石器時代
先史時代(世界史的名称)約330万年前(旧石器時代)~5300年前頃(最古の文字遺跡)※諸説あり

※「約330万年から約200万年前」(前期旧石器時代の始まり)について:旧石器時代(英語 Paleolithic)の時期とくに始りについては諸説あり。そのため「約330万年から約200万年前」と幅のある表記にて記載。(なお、当記事の年代は、英語版ウィキペディア(参考)en.Wikipedia-Paleolithic 、および、日本語版ウィキペディア「旧石器時代」(参考)ウィキペディア-旧石器時代 の2つの参考文献を参照しつつ記載。ただ両者の記述には一部異なる箇所もあり。そのため幅のある表記とした。)

ちなみに、ここは日本の音楽史の年表的なまとめページであり且つ日本史年表もしくは日本史そのものを解説する記事ではないので音楽以外のことはなるべく省略に努める所存です。ただ、旧石器時代は非常に長く、人類史(約700万年前頃から)の約半分近くを占めている時期。というわけでとりあえず旧石器時代の大まかな時期(旧石器時代の時代区分)だけは載せさせていただきます。なお、このテキストも追って別項に移動するかも。できるだけこのページは皆さんが期待するようないわゆる表形式の「年表」を掲載していくつもりなのですが現在は年表作成中の情報整理でこのようにこちゃこちゃ書いてます(;^_^A

旧石器時代の音?こちらも調査中(;^_^A

約30万年前~約1万2千年前頃★音楽の起源★

約30万年前~約1万2千年前頃★音楽の起源★旧石器時代(中期~後期)

音楽の起源(英語 Origin of Music)
音楽は旧石器時代(中期・後期)に最初に出現。すなわち早ければ約30万年前(300,000BP)遅くとも約1万2千年前(12,000BP)までの間に現れたと考古学等の研究達の間で考えられている。ただし、中期旧石器時代(約30万年前~)か後期旧石器時代(約5万年前~)かなどの詳細な時期は不明。

音楽の起源(英語 Origin of Music)

音楽は旧石器時代に最初に出現した。だが、これが中期 (300,000 ~ 50,000 BP) または後期旧石器時代 (50,000 ~ 12,000 BP) であったかどうかは不明のままである。旧石器時代の楽器の大部分はヨーロッパで発見されており、後期旧石器時代にさかのぼる。

(出典)英語版ウィキペディア(en.Wikipedia)-音楽の歴史(History of music)より筆者仮訳※出典元リンクは以下の引用文の出典(英語 Source)に記載。

Music first arose in the Paleolithic period, though it remains unclear as to whether this was the Middle (300,000 to 50,000 BP) or Upper Paleolithic (50,000 to 12,000 BP). The vast majority of Paleolithic instruments have been found in Europe and date to the Upper Paleolithic.

(Source) History of music – Wikipedia

約5万年前~後期旧石器時代

先史音楽(Prehistoric Music)
(参考リンク:🔗英語版wikipedia-Prehistoric music


★「人類最古の楽器」および「人類最古の音楽」については諸説あり。現時点では、(いつ?)約4万年前頃、(どこで?)ドイツ南部オーリニャック文化で、(だれが?)現生人類ホモ・サピエンス(Homo sapiens)が、(なにを?)骨製フルートを、(どうやって?)マンモスの骨で作った、(なぜ?)ことが「人類最古の楽器」の主な候補とされている。

※なお、旧人類「ネアンデルタール人の笛」説については、1995年スロベニアの洞窟で「発見」と報告。2015年に否定(※2015年3月31日付英国王立協会科学誌「Royal Society Open Science」論文 Resource🔗「Research article
‘Neanderthal bone flutes’: simply products of Ice Age spotted hyena scavenging activities on cave bear cubs in European cave bear dens – Cajus G. Diedrich
, Published:01 April 2015, Royal Society Open Science」)。2022年頃英BBC放送特番放送などで肯定説が再浮上(参考記事🔗『世界最古の楽器? 5〜6万年前の「ネアンデルタール人の笛」英BBCが特集映像公開』amass、2022年7月10日付)。こうした経緯により、現在でも一部で論議も続いている。

約4万6千年~4万4千年前頃(オーリニャック文化):

ドイツ南西部現生人類「最古の楽器」の候補(参考記事🔗「骨製フルート、人類最古の楽器と判明」ナショジオ、2009年6月24日付

「世界最古の楽器? 4万年前の骨フルート」「ドイツの洞窟で見つかったマンモスの牙を使ったフルートは、4万年前のものであることが判明(引用)」

ドイツ南部ガイセンクレステルレ洞窟 (Geißenklösterle)は「オーリニャック文化期では最も初期のもので、イタリア、フランス、イングランドなど、ほかの地域にある同文化の遺跡よりも以前にさかのぼる」と考えられている。
(参考記事🔗「世界最古の楽器? 4万年前の骨フルート」WIRED.jp、2012年5月31日付

※ガイセンクレステルレ洞窟 (Geißenklösterle)の場所:ウルム近郊※シュトゥットガルトとミュンヘンの間(参考リンク「旧石器時代めも」AYCJ

(参考記事🔗『「ネアンデルタール人の笛」、動物の仕業だった“人類最古の楽器”とされた骨笛の穴は、ハイエナの歯の跡と判明』ナショジオ2015年4月3日付
※スロベニア ディウイェ・バーベ(Divje Babe)洞窟

(備考)46,000年前~44,000年前頃 オーリニャック文化期の始まりか

約4万年前(後期旧石器時代)

約3万年6千年前頃~日本への祖先移動か

約2万4千年前~1万4千年前頃:クニャック洞窟(Grottes de Cougnac)

参考リンク🔗「クニャック洞窟(Grottes de Cougnac)- AYCJ」(別サイト)

約1万8千年前 旧石器時代後期:フランス南部ピレネー山脈近くの洞窟でホラ貝楽器
約1万6千年前(紀元前14000年頃)まで:日本の旧石器時代のオト※
※(備考)約1万6千年前=紀元前14000年頃+紀元後約2000年

とらナイヅ寅
とらナイヅ寅

マイナス2千年!?「~万年前」と「紀元前~前」って紛らわしいね( ノД`)シクシク…

さるナイヅ山
さるナイヅ山

そうじゃのう…まあこればっかりはどちらも使われてるから両論併記で仕方ない。ざっくりマイナス2千(-2000)で差し引いて読むしかないじゃのう。

※日本の旧石器時代のオトについては土取利行(つちとり としゆき)氏と考古学者の研究者達によるサヌカイトを用いた長年の研究や実験的演奏がある。

(※黒曜石などを利用して笛などの楽器を作ったかもしくは石自体を鳴らしたか詳細は不明だが少なくとも何らかの形で黒曜石などの石が関わった可能性などが研究されている。※諸説あり。)※

(備考)黒曜石・サヌカイト・ヒスイ(違い)
・黒曜石(Obsidian):火山岩の一種(火山岩はマグマ由来の岩石のうち火口近くで急激にマグマが冷えて固まったもの)。ガラス質で非結晶。黒曜石の主な産地:栃木県高原山。長野、北海道、九州など。(なお、約4万年前は関東平野は海の中)
・サヌカイト:火成岩の一種である安山岩の一種(※火成岩はマグマが冷えて固まった岩石)微結晶。サヌカイトの主な産地:香川県、大阪など。
・ヒスイ(Jade):火成岩の一種である輝石(キ石)の一種。やわらかい。

※石器として用いられたのは黒曜石からサヌカイトまでか?(比較的硬い。割ると鋭利な破片。)ヒスイの石器利用という説もあるが輝石(キ石)の硬度としてはやわらかいので装飾品か。但し、石器の鉱物利用方法については諸説あるためこちらはあくまで筆者の個人的感想。

なお、土取利行さんは旧石器時代・縄文時代・弥生時代まで日本の先史音楽から古代音楽に関する一連の作品を発表されている。(2008年:古代三部作シリーズ)

(参考)ウィキペディア、日本列島の旧石器時代

約1万6千年前~縄文時代の音楽(日本)・先史時代の音楽(世界)

約1万6千年前~約1千年前までの音楽:縄文時代の音楽(日本)・先史時代の音楽(世界)

約1万6千年前といわれる縄文時代約1万2千年前といわれるアンデス文明など。世界史における「先史時代」の音楽:先史音楽(英語 Prehistoric music)(参考)英語版wikipedia-Prehistoric music

(日本)
・約1万6千年前頃~縄文時代
1万6千年前頃~縄文時代(1999年大平山元Ⅰ遺跡

(世界)
・約1万2千年前頃~アンデス文明
約1万2千年前といわれるアンデス文明など

約1万6千年前~縄文時代(紀元前14000年※紀元前140世紀頃 – 紀元前10世紀頃)

縄文中期後半頃 土笛
・縄文中期後半頃:長野県箕輪町2から出土したラグビー・ボール型の土製品
・縄文後・晩期:埼玉県桶川市の後谷遺跡から出土したほぼ球形で吹き口の両側がつまみ上げ られた土製品(参考)「楽器の考古学」笠原潔『日本育響学会誌』62巻8号(2006)pp593−598)

※その他、「縄文太鼓」「石笛(いわぶえ)」については楽器としての同定に諸説あり。
・「有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)」と縄文時代の太鼓に関する諸説(賛否)
(〇)縄文太鼓「有孔鍔付き土器」肯定説:考古学者の山内清男(やまのうち・すがお)先生※日本の縄文研究の先駆者(参考)ウィキペディア)らは動物の皮を張り太鼓として用いたという説。1990年頃より音楽家(打楽器奏者)の土取利行氏が縄文時代の音を復元する試みとして長野県茅野市「有孔鍔付き土器」に地元の鹿皮を貼り演奏した。こちらは『縄文鼓——大地の響震』として作品発表されている(2008)。(参考)『縄文鼓——大地の響震』土取利行,2008(作品検索,公益財団法人日本伝統文化振興財団HP)※先方サイトで視聴可(下記参照)
(×)縄文太鼓「有孔鍔付き土器」懐疑節:ただし、縄文時代の遺跡からの出土品「有孔鍔付き土器」を太鼓とする説には異論もあり(笠原潔,前掲書,2008)。その他、蓋をして醸造器として用いたかという説など。
・石笛(いわぶえ):

(備考)古代音楽(Ancient Music)の時代区分について

※古代音楽(Ancient Music)については日本での古代の音楽(約5世紀以降の音楽)と英語圏での”Ancient Mus”(紀元前数千年前ごろの世界史における古代文明頃の音楽)とで時代区分が異なる場合もある。ここでは、古代音楽a(Ancinet Music)と古代音楽b(5世紀以降の日本の古代の音楽)に分類して以下のように記載する。
・古代音楽(世界史)(Ancient Music):世界史の四大文明などの音楽
・古代音楽(日本史)(Japanese Ancient Music / Ancinet Music in Japan):5世紀以降の日本の古代音楽

約1万2千年前~数千年前の古代音楽(世界史)(Ancient Music)※備考
・約1万2千年前頃~アンデス文明
約1万2千年前といわれるアンデス文明や、世界の4大古代文明などの古代音楽(世界史)
(備考)変わりつつある古代文明の通説
4千年?~3千年前 古代文明?
千年?~3千年前 エジプト
4千年?~3千年前 メソポタミア
4千年?~3千年前 インダス
?千年~3千年前 中国
紀元前2000年頃~ギリシャ(エーゲ文明)
約数千年前~3千年前の古代文明の音楽。
(※このページでは日本の音楽史を扱うため参考までに併記)

約1千年前(紀元前10世紀頃)弥生時代の音楽(日本)・古代ギリシャ音楽など(世界)

約1千年前(紀元前10世紀)~弥生時代
紀元前8世紀前~古代ギリシャ(都市国家ポリス)
紀元前753年~古代ローマ
紀元前数世紀前のプロト・ヨーロッパの音楽
紀元前数世紀前の古代メソポタミア(アラブ)の音楽
紀元前3世紀の古代ギリシャの音楽
紀元前3世紀の古代ローマの音楽
紀元前3世紀の古代ギリシャやローマの音楽。

紀元前10世紀 –(紀元後)3世紀中頃:弥生時代

※弥生時代の年代(紀元前約10世紀-紀元後3世紀)についてはウィキペディア-弥生時代の記載に準ず参照

日本音楽史年表のできごと

?~紀元前660年2月11日まで:(日本の音楽の始まりに関する伝説)日本神話において高天原の天岩戸伝説においてウズメノミコト(アマノウズメ)が歌舞を披露したという逸話がのちの8世紀頃に編纂された『古事記』や『日本書紀』に書かれている。

日本の音楽は、「古事記」「日本書記」にある天の岩戸のウズメノミコトの音楽と舞踏に起源を持ち、古来より信仰や儀礼に基づく歌謡を中心とした、日本固有の民族的歌舞とコト(和琴)、笛、太鼓、スズや銅鐸などの楽器が存在した

(参考)ウィキペディア-アマノウズメ

紀元前660年2月11日:紀元節(きげんせつ)古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日。祝日「建国記念日」の由来。なお、紀元前660年2月11日の神武天皇即位日の日付はあくまで日本神話にもとづく「建国をしのぶ」日付である。(考古学や地質学等の科学的な検証についてはその実施の是非も含めて様々な議論がある。ここではあくまで「日本の音楽の始まりに関する伝説」のひとつとしてギリシャ神話などと同様の日本神話での物語として例示。)

「日本の音楽の始まりはいつ?」この素朴なギモンに対する答えは難しい。というより現在でも確定はしていない。ただ、1つの例として挙げられるのは上述の日本神話における天岩戸伝説におけるアマノウズメという踊り子の歌と踊りである(詳細は省略)。さて、それよりネットをいくら調べてもなかなか見つからないのが「いや天岩戸伝説とかウズメノミコトの神話は知ってるけど、それっていつ頃?」という時期である。ここで筆者が弥生時代頃まで(遅くとも紀元前660年2月11日まで)とした理由は、1)日本神話が神武天皇即位までの時期に関する物語であること、2)神武天皇の即位日は建国記念日などで紀元前660年2月11日とされていること、3)弥生時代の時期はウィキペディアによれば紀元前10世紀(紀元前1000年頃)から紀元後3世紀とされていること、この3つの参考情報から推察した仮説である。なお、はじまりの時期については「?」と書いているとおりあくまで不明。(個人的には、古事記研究者などから天岩戸伝説とアマノウズメの歌舞がギリシア神話と類似している意見などもあり、この日本神話のエピソード事態ももっと古い縄文時代の故事を指すのではとも思う。)ただ、現時点で一般的に認められている根拠のみで仮説すると、「日本の音楽の始まりに関する日本神話は遅くとも紀元前660年頃までの伝説」ということである。

紀元前3世紀~
:弥生時代の音楽(1)
:銅鐸・石笛・土笛

日本音楽史年表のできごと

銅鐸(どうたく)・石笛・土笛などが儀礼用の音楽に使われたか※諸説あり

※銅鐸については諸説あり。(参考)ウィキペディア – 銅鐸(例えば、日本への渡来についても1)高句麗経由で鈴が渡来しそれが発展したとする説、2)古代中国から直接伝来した説(紀元前470年頃の春秋時代の越での出土品による考察)、など諸説ある。また、用途についても諸説ある。一般的には弥生時代の銅鐸研究の第一人者である考古学者佐原真(さはら・まこと)先生らにより農耕祭祀などで用いられたと考えられている。ただし、紀元前頃の弥生時代の銅鐸が比較的小型だったものから紀元後約2世紀頃から大型化がみられるなど、銅鐸の変遷についての考察などもあり、用途の変化なども含めて、様々な見解がある。いずれにせよ、弥生時代を象徴する青銅器の一つである。

弥生時代の銅鐸については1983年頃から上述の土取利行(つちとり・としゆき)氏の演奏がある。
1983『土取利行 Toshiyuki Tsuchitori / 銅鐸 弥生幻想 Ancient Echoes Of Japan』
2008年『銅鐸-黄金の鼓動』土取利行※古代三部作(1)(参考)じゃぽオンラインストア(※出版元レーベル日本伝統文化振興財団の関連ショップ※詳しい作品情報アリ)

(参考動画)銅鐸演奏/土取利行 Toshi Tsuchitori play Ancient Japanese bronze bell DOTAKU

1世紀 弥生時代

西暦元年(1年)から西暦100年まで
:弥生時代の音楽(2)

2世紀 弥生時代

西暦101年から西暦200年まで
:弥生時代の音楽(3)

3世紀 弥生時代~古墳時代

西暦201年から西暦300年まで
:弥生時代の音楽(4)
:古墳時代(3世紀中頃※–7世紀頃)の音楽(1)

※弥生時代と古墳時代の明確な時代区分時期は不詳

古墳時代(3世紀中頃※–7世紀頃)

:古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)の音楽(1)

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3世紀末(280年呉の滅亡-297年陳寿の没年の間)の魏志倭人伝で邪馬台国の葬儀に関する歌舞(かぶ)に言及

歌舞(かぶ):歌ったり舞ったりすること。

(参考文献)『初めての音楽史』音楽之友社,p135、第1章日本音楽史の始まり(西暦300年~1000年まで)より抜粋(以下、同)。

其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 (日本語訳)人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて水中に入り、体を清める。これは練沐のようである。

(出典)ウィキペディア-魏志倭人伝 より筆者抜粋・引用


(※魏志倭人伝とは、中国の『三国志』「魏書」第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん ) 倭人条の略称(参考)ウィキペディア

4世紀 古墳時代

西暦301年から西暦400年まで
:古墳時代(3世紀中頃–7世紀頃)の音楽(2)

5世紀 古墳時代・飛鳥時代

西暦401年から西暦500年まで
:古墳時代(3世紀中頃–7世紀頃)の音楽(3)
:飛鳥時代(592年–710年)の音楽1)

※古墳時代は考古学上の年代区分。飛鳥時代は日本史(政治体制)の年代区分。よってこの時期からは2つの年代区分が重なる場合がある。

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460年頃允恭天皇(いんぎょうてんのう)の葬儀に新羅(しらぎ)の音楽家が種々の楽器をもって多数参列、泣きながら歌舞を奏した。

※新羅楽(しらぎがく)の最古の記録とされる。新羅楽とは、朝鮮半島の新羅から飛鳥~奈良時代に伝来した音楽。三韓楽の一つ。今日のいわゆる高麗楽 (こまがく) の母体となった。伝来当時の音楽の実態は未詳。楽器としては新羅琴が知られる。
(参考)前掲書、ウィキペディア-新羅楽、等

:飛鳥時代(592年–710年)の音楽1)

6世紀 古墳時代・飛鳥時代

西暦501年から西暦600年まで
:古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)の音楽(4)
:飛鳥時代(592年–710年)の音楽2)

★6世紀半ば~8世紀頃まで:日本音楽史における古代(前期:外来文化流入時代)の音楽□はじまり

日本音楽史年表のできごと

6世紀半ば:百済の楽人の交代要員来日

(552年仏教伝来)

6世紀以降の西洋の古典音楽
6世紀以降の東洋の古典音楽
6世紀以降のインドの古典音楽
6世紀以降の中国の古典音楽
6世紀以降の日本の古典音楽

7世紀 古墳時代・飛鳥時代

西暦601年から西暦700年まで
:古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)の音楽(5)
:飛鳥時代 (592年 – 710年)の音楽3)

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612年:伎楽(ぎがく)が百済人味摩之(みまし)によって日本に定着(日本書紀)

(参考)伎楽(ぎがく)は、日本の伝統演劇のひとつ ウィキペディア-伎楽

675年(天武4年)正月『日本書紀』陰陽寮が最初に記載。★陰陽師登場(公設)※

(※なお陰陽五行思想は6世紀に伝来(※諸説あるが、512年五行博士、554年易博士が百済より来日)。602年には百済から観勒(かんろく)来日し聖徳太子らに陰陽五行説を含む諸学を講義。602年以後日本の律令制において陰陽五行が影響。上記のとおり文献上では675年『日本書紀』の記載が最初とされているが、実際に陰陽寮がいつ設置されたか?については不明。603年~675年の間とも推測されるがこの点については考古学的な調査などが期待される。つまり、何を言いたいかというと陰陽を操る方々はもっと前から居たのではないか?いちおう現在の日本史では675年『日本書紀』が陰陽師が日本式に公的に設置されたとされる。ただし、512年五行博士来日などの陰陽寮前史などを勘案すると、蛇足だが筆者の私見ではおそらくもっと以前から陰陽師に類する人々は登場していたであろうと思ふ。すなわち6世紀の古墳時代後期から6世紀末592年飛鳥時代初期には官職ではないが民のなかに五行博士の子孫もしくはお弟子さんがおられたのではないか。その辺りの陰陽師前史と『呪術廻戦』などの物語を絡めると管理人の歴史ロマン的な妄想は広がってしまうのでござる🙂)

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7世紀から8世紀頃、琵琶が中国から日本伝来

※伝来当時の琵琶は正倉院宝物(参考)ウィキペディア-琵琶

8世紀 飛鳥時代・奈良時代・平安時代

西暦701年から西暦800年まで
:飛鳥時代 (592年–710年)飛鳥時代の音楽4)
:奈良時代(710年 – 794年)の音楽
:平安時代(794年–1185年)の音楽1)

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701年:雅楽寮(うたまいのつかさ)が設置される

687年(持統元年)正月丙寅条「楽官(がっかん)」※雅楽寮の前身とも(参考)『日本書紀』前掲書、ウィキペディア – 雅楽寮

701年(大宝元年)「大宝律令」中務省(なかつかさしょう)設置に伴い雅楽寮(うたまいのつかさ)が設置される。

(備考)701年(大宝元年)8月3日「大宝律令」中務省(なかつかさしょう)設置中務省下部組織として約10官司が設置(※新設か)(ウィキペディア-中務省)。同じく、701年大宝律令により中務省(なかつかさしょう)設置時に「楽官」から「雅楽寮」に改組か(※新設・改組は筆者私見・諸説あり)。なお、ウィキペディアの中務省(なかつかさしょう)の記事には雅楽寮は明記されていないが上述のとおり別記事「雅楽寮」の項に記載されている。

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8世紀初め 日本最古の史書 712年『古事記』 720年『日本書紀』(日本神話で音楽の始まりともされる天岩戸伝説などが書かれた※弥生時代参照)

712年(和銅5年)『古事記』(こじき)編纂。日本の日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物。
720年(養老4年)『日本書紀』編纂。神代から上古までを記した史書。

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752年:東大寺大仏開眼供養(日本の仏教音楽のはじまり)

日本の仏教音楽のはじまりは、仏教の伝来と同時に仏教儀式の構成要素として伝えられた、外来音楽としての声明と雅楽である。『東大寺要録』によると、天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)に行われた東大寺盧舎那仏の開眼供養会では、インドの僧侶の菩提僊那が導師を務めたとされる。

(出典)ウィキペディア – 仏教音楽

声明は、キリスト教会に伝わるグレゴリオ聖歌とともに世界で最も古い伝統音楽のひとつ

日本音楽史年表のできごと

782年:散楽戸(さんがくこ)が廃止され散楽(さんがく)の民間流出が起こる

(参考)前掲書、ウィキペディア – 散楽

★6世紀半ば~8世紀頃まで:日本音楽史における古代(前期:外来文化流入時代)の音楽■おわり

9世紀 平安時代

★9世紀頃~10世紀頃まで:日本音楽史における古代(後期:国風化時代)の音楽□はじまり

西暦801年から西暦900年まで
:平安時代(794年–1185年)の音楽2)

日本音楽史年表のできごと

9世紀:外来雅楽の日本化

日本音楽史年表のできごと

9世紀半ば:管絃(かんげん、かげん)・催馬楽(さいばら)・朗詠(ろうえい)が生まれる

※管弦(かんげん)とは、雅楽の唐楽のうち、純粋な器楽合奏の形態のもの

管弦(かんげん)「かげん」ともいう。雅楽の唐楽のうち、純粋な器楽合奏の形態のもの。広義には催馬楽(さいばら)・朗詠も含む。平安貴族の御遊(ぎょゆう)のなかで舞楽からしだいに舞が除外されたもので、管絃吹(ぶき)と称し、各楽器の技法が駆使される。

(参考)コトバンク – 管弦

※催馬楽(さいばら)とは平安時代に隆盛した古代歌謡。(参考)ウィキペディア – 催馬楽

※朗詠(ろうえい)は平安時代の歌曲で和漢の名句を吟唱するもの。今日の詩吟とほぼ同じ(参考)ウィキペディア-朗詠

日本音楽史年表のできごと

9世紀半ば:下野国出身の円仁(えんにん)慈覚大師(じかくだいし)が中国天台宗の儀礼音楽を組織的に導入

(参考)前掲書、ウィキペディア – 円仁声明(しょうみょう)

10世紀 平安時代

西暦901年から西暦1000年まで
:平安時代(794年–1185年)の音楽3)

日本音楽史年表のできごと

966年源博雅が『博雅笛譜』を編纂(へんさん)

※小説・映画『陰陽師』安倍晴明のパートナーのモデル(参考)ウィキペディア – 源博雅

日本音楽史年表のできごと

10世紀後半:今様(いまよう)が生まれる

(参考)ウィキペディア – 今様

★9世紀頃~10世紀頃まで:日本音楽史における古代(後期:国風化時代)の音楽■おわり

11世紀 平安時代

★11世紀頃~15世紀頃まで:日本音楽史における中世の音楽□はじまり

西暦1001年から西暦1100年まで
:平安時代(794年–1185年)の音楽4)
:古琉球(11世紀または12世紀頃~15世紀前半(1429年))の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

1000年頃 芸能・文化史で中世的傾向:雅楽の国風歌舞(くにぶりのうたまい)における組曲形式の原型が整う

(参考)ウィキソース – 国風歌舞(くにぶりのうたまい)

12世紀 平安時代・鎌倉時代

西暦1101年から西暦1200年まで:
:平安時代(794年–1185年)の音楽5)
:鎌倉時代(1185年–1333年)の音楽1)
:古琉球(11世紀または12世紀頃~15世紀前半(1429年))の音楽2)

日本音楽史年表のできごと

12世紀後半 後白河法皇『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。

(参考)ウィキペディア – 梁塵秘抄

13世紀 鎌倉時代

西暦1201年から西暦1300年まで
:鎌倉時代(1185年–1333年)の音楽2)
:古琉球(11世紀または12世紀頃~15世紀前半(1429年))の音楽3)

日本音楽史年表のできごと

13世紀:平家琵琶(平曲)が確立

※「平家物語」を琵琶法師が語るときに用いる琵琶のこと(参考)武蔵野音楽大学 – 平家琵琶

14世紀 鎌倉時代・建武の新政・室町時代・南北朝時代

西暦1301年から西暦1400年まで
:鎌倉時代(1185年–1333年)の音楽3)
:建武の新政(1333年 – 1336年)の音楽
:室町時代(1336年 – 1573年)の音楽1)
:南北朝時代(1337年 – 1392年)
::古琉球(11世紀または12世紀頃~15世紀前半(1429年))の音楽4)

謡(うたい)参考(ウィキペディア-謡
※謡曲(ようきょく)※大正・昭和初期頃から(参考 ウィキペディア-謡曲

日本音楽史年表のできごと

1333年観阿弥(かんあみ)生誕

※観阿弥:猿楽師。息子の世阿弥とともに、能を大成した人物(参考)ウィキペディア – 観阿弥 (参考)ウィキペディア-観世流

日本音楽史年表のできごと

1363年頃 世阿弥(ぜあみ)生誕

日本音楽史年表のできごと

1375年頃 今熊野で観阿弥が初めて足利義満を猿楽(さるがく)見物に迎える

※猿楽(さるがく)とは現在の能楽(能・狂言)(参考)ウィキペディア – 猿楽

日本音楽史年表のできごと

14世紀末(1392年頃) 古琉球(コリュウキュウ)に三弦(サンシェン)伝来※

(参考文献)前掲書(『はじめての音楽史』裏表紙の年表)、沖縄県三線製作事業協同組合HP「三線の歴史」ウィキペディア-三線、等

※三線(サンシン)の伝来時期等は諸説あり。
・三弦(サンシェン)が中国から琉球に伝来した経路の最も古い時期に関する説:1392年頃の明(ミン)王朝にいまの福建省出身の閩(ビン)人(10世紀頃五代10国のひとつ閩(ビン)国の出身者)などが、グスク時代・三山(サンザン)時代の古琉球に三弦(さんげん)を持ち込んだという説。
・三線(サンシン)の起源:その後、閩(ビン)の人々が、那覇の久米村に移住し、久米三十六姓と呼ばれる。この那覇の久米村(現在の那覇市久米1丁目交差点近く・ゆいれーる旭橋と県庁前の間)を拠点として、グスク時代の古琉球に広まった。
ここまでは概ね三線(サンシン)関係者の共通認識とされている。

以下、参考文献を調べたうえでの筆者の個人的見解を付記する。
・三弦(サンシェン)の伝来は古琉球(コリュウキュウ)時代であり、琉球王朝ではない。前掲書を含む多くの参考文献でも琉球王朝時代に三弦(サンシェン)が伝来したと書かれているが、琉球王朝の成立は15世紀前半(1429年)であり、14世紀後半は古琉球(コリュウキュウ)グスク時代の三山(サンザン)時代にあたる。この点は明らかな誤記であるので以後日本音楽史年表等の記載上は訂正すべきかと思う。
・14世紀末の三弦(サンシェン)の伝来と15世紀の三線(サンシン)の成立には約30年以上もの「三弦(サンシェン)から三線(サンシン)への変革期」すなわち中国明の楽器「三弦」が「三線」へと沖縄化される歴史(技術開発期間)がある。(いわずもながだが、30年は結構長い。例えば現代におきかえれば平成31年間と同じくらいのタイムスパンがある。)

※なぜここを強調するかというと、この14世紀末の古琉球(コリュウキュウ)における三線(サンシン)の成立~三弦(さんげん)から三線(サンシン)への技術改良~は、のちの日本民謡の伴奏楽器として普及する三味線の日本でのルーツであり、いわば日本音楽史における大きなターニングポイントの一つだからである。
・後述するように15世紀の琉球王朝での三線(サンシン)の奨励から15世紀の奄美のシマウタ(島唄の起源)におけるサンシン(三線の奄美化)、さらに16世紀後半の堺などを中心に発展したとされる三味線(三線などの日本・本土化)まで、各地域・郷土における三弦(サンシェン)の日本化における楽器改良の工夫は、日本の民謡そのものの音楽様式の成立(演奏スタイル・すなわちジャンル)において楽器面での肝心な要素(キモ)となっていく。
・まず沖縄では、14世紀後半から15世紀にかけて少なくとも約30年の初期開発段階があり、さらに17世紀の琉球王朝宮廷音楽への三線採用まで広げれば約200年近くもの三線開発期間がある。
・次に、奄美のサンシンは琉球の三線よりやや小ぶりに改良され島唄(シマ)の伴奏楽器として野外でも携行し村落住民の生活に根付く上で重要な楽器面での改良だった。
・日本の本土(内地)では、奄美から九州の鹿児島にサンシンが伝わり、その後、日本国内で様々な楽器改良や郷土化が進んでいったと考える。順序は逆になるが、例えば、三味線ではサワリという琵琶からの流れが加わった。
・16世紀の三味線成立後各地に広がり、北前船での各地の寄港による三味線の普及も手伝い、新潟の瞽女(ごぜ)の三味線、19世紀末(明治初期)に津軽三味線などが生まれ、現代の民謡につながっていく。
ひとくにち三味線の歴史といっても、14世紀末(室町・南北朝・古琉球時代)から19世紀末(明治初期)までの「明の三弦(さんげん)・古琉球(コリュウキュウ)の三線(サンシン)・奄美のサンシン・日本の三味線という3つの歴史があった。(この言わば「三線・サンシン・三味線の3段活用?」(3段階の楽器技術開発の歴史)は、日本音楽史の基本の一つとして押さえておきたい。※なんて偉そうに書いたが筆者ももちろん調べるまで知らなかった。頭の中でつながってなかった。よかったら皆さんにもこの辺の時系列を整理整頓して、沖縄三線・奄美サンシン・日本三味線の3つの線をを頭の中で1つの糸につなげてみる見方もご検討いただければと思うのである。)
・なお、さらに私見だが、こうしたの歴史の過程で、津軽三味線はもちろん、その前段の新潟の瞽女(ごぜ)の三味線、北前船での各地の寄港による三味線の普及などの郷土化・土着民衆化などの「三味線の(テキサス)ブルース化」というベクトルもあれば、むろん吉原などの花魁、祇園の芸者さんなどの華やかな宴仕様の「三味線のシティ・ポップ化」というベクトルもあろうか。まあこの辺は筆者の俗説にすぎないが、要は三線・サンシン・三味線という民謡の伴奏楽器だけでもいくつかの伴奏音楽(つまりサウンド)面でのトレンドもあったのかと思う。
・いずれにせよ、少なくとも最初の中国の三弦(サンシェン)と琉球の三線(サンシン)の違いを抑えておくことは、その後の三味線の多種多様な広がりを考える上で、カオス理論的にも重要なのである。つまり三弦(さんげん)から三線(サンシン)の変化という出来事は、日本音楽史において沖縄だけの問題ではない。かように筆者は思う次第である。

(・三五郎亹(さんぐるみー)が三線(サンシン)と関わりがあるかどうかは定かではない。)

ただ、筆者の個人的見解では、古琉球から琉球王朝初期に明との外交などで活躍した三五郎亹(さんぐるみー)さんが女性だったという説も含め、古琉球(コリュウキュウ)への三線(サンシン)伝来に何らかの役割を果たしたのではないかという仮説も想像してみたいロマンもある。

(さらに、個人的には、(この13世紀14世紀のレキオ・スーパーレディーが)峰不二子さんとテンペストの仲間由紀恵さんと李香蘭さんとマンガ『竜(Ron)』の田鶴ていさん達などの女性たちの「ほんとうとうそをないまぜにして(「大人はおとな」読売テレビより引用)…つまり妄想を抱いてしまうのである。(;^_^A …しまったまた落書きあとで消します)

15世紀 室町時代・戦国時代

西暦1401年から西暦1500年まで
:室町時代(1336年 – 1573年)の音楽2)
:戦国時代(1467年(1493年)– 1590年)の音楽1)
:琉球王朝(1429年-1879年(明治12年))の音楽1)

室町時代の初期から末期※狂言(参考)ウィキペディア-狂言

※狂言の成立期はウィキペディアなどで室町時代とされるが室町時代は14世紀前半から16世紀後半と範囲が広く詳細は不明。ただし、いずれにせよ謡(うたい)や狂言の狂言小歌なども能の謡から派生したものと推察される。★つまり日本の歌謡曲のルーツは能の謡。蛇足だが、ということは今でいうadoさんの世界観はこの辺につながるのかもしれない(筆者雑談😅)

日本音楽史年表のできごと

1429年 琉球王朝成立

15世紀になると当時の王・尚真(ショウシン)により士族の教養の一つとして奨励されるようになりました。

日本音楽史年表のできごと

1433年 音阿弥が観阿弥を継ぐ

日本音楽史年表のできごと

1434年 世阿弥が佐渡流罪となる

日本音楽史年表のできごと

1467年 応仁の乱による京都の楽人離散

応仁の乱を端緒とする動乱によって京都の楽人は四散し宮廷雅楽は衰退。だが、南都(奈良)や天王寺(大阪)の楽所(がくそ)の楽人らの継承により辛うじて雅楽の伝統が守られた。(参考)ウィキペディア – 三方楽所

★11世紀頃~15世紀頃まで:日本音楽史における中世の音楽■おわり

16世紀 室町時代・戦国時代・安土桃山時代

★16世紀頃~17世紀半ば頃まで:日本音楽史における近世(前期)の音楽□はじまり

西暦1501年から西暦1600年まで
:室町時代(1336年 – 1573年)の音楽3)
:戦国時代(1467年(1493年)– 1590年)の音楽2)
:安土桃山時代(1573年–1603年)の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

16世紀半ば(1549年ザビエル来航)頃からキリスト教(カトリック)伝来、信徒によるキリシタン音楽が九州・安土などで普及★日本の西洋音楽の始まり

室町時代末、スペイン・ナバラ王国(現ナバラ州)出身のイエズス会宣教師(インドのゴア宣教監督)フランシスコ・ザビエル(スペイン語 Francisco de Xavier)ら3名(ヤジロウら)は、中国・明(1368年-1644年)の上川島(じょうせんとう※現在のマカオ西南の島)経由し、薩摩国の坊津(ぼうのつ※現在の薩摩半島西岸の南さつま市坊津町坊)に上陸。九州と安土(織田信長公の安土城界隈※現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)において布教を開始。神学校を設立。ザビエル卿はキリスト教のみならず音楽教育にも熱心。西洋音楽(キリシタン音楽とも)がキリスト教神学校の生徒を中心に教えられた。

16世紀半ば(1549年)★日本の西洋音楽の始まり★(ほぼ歴史的事実※諸説あり)

※日本の西洋音楽の始まりは諸説ありとされてきた。だが、近年ザビエルと共に来日したスペイン・バレンシア出身のコスメ・デ・トーレス牧師(Cosme de Torres)による山口、豊後(大分)、長崎などにおける(隠れ)キリシタン子弟への西洋音楽教育の伝統が明らかになっている。さらに特記すべきは16世紀半ばのキリスト伝来から19世紀半ばの幕末・明治維新まで約3世紀(約300年)!の鎖国時代の日本においても(隠れ)キリシタン関係者、および地理的には九州(豊後、長崎、出島)、山口など一部という日本国内では限定的な地域ではあったが西洋音楽は日本に伝わっていた点。具体的にはグレゴリオ聖歌、西洋音階等、ピアノ、楽器、楽譜、など。そしてこの点はまだ資料が不詳だが、16世紀半ばから19世紀半ばというまさに西洋クラシックの黄金期の始めから終わりまでの約3世紀をとおして出島オランダ商館などのわずかな接点ではあるが日本も小さな窓を通じて世界とつながっていた。おらしょ、などの九州地方の民謡には西洋音楽との接触もあった、とされる。(参考文献1)「1820年代の出島における苦楽状況オペレッタ上演とシーボルトのピアノを中心に(平成17年度-平成18年度科学研究費補助」(平成19年5月研究代表者竹井成美宮崎大学教育文化学部教授)※pdfのためリンクはGoogle検索結果、(参考文献2)🔗「キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について」髙田重孝、2023年4月14日,note記事🔗
筆者注:これまでも鎖国時代の隠れキリシタンのミサやオラショなどは『はじめての音楽史』などでも記載されているとおり一定の認知はされていた。ただ、上記の参考文献などより具体的な裏付けとなる資料が発表されているためここで改めて特記させて頂いている次第である。
高田さんご提供の15世紀頃のフランスやスペインのグレゴリオ聖歌の羊紙の楽譜などの実物の資料も目を引く。ただ、とくに重要と思われる点は2つ。1つは10世紀から12世紀頃という西欧音楽史の文献でもなかなかお目にかかる機会の少ない近世グレゴリオ聖歌のひとつである「聖母マリア聖歌の6曲」が16世紀半ば頃には日本にも伝わっていた点。(筆者の私見ながら西洋音楽史でも6世紀以降のグレゴリオ聖歌と14世紀から16世紀頃までのルネサンス期の間の中世から近世(7世紀から13世紀)の西洋音楽史は、ルネサンス以降の緻密ともいえる西洋音楽史と比べるとグレーな部分が多い印象がある。つまり私見ながらグレゴリオ聖歌はどう伝播したのかという事例が少なかったように思う。個人的には以前フランス音楽史関連で例えばトロバドールなどの吟遊詩人関連なども探してみたりしたが今一つよくわからなかった。その事例がなんと日本の隠れキリシタンに伝わっていた賛美歌にあった。これがあくまで筆者の限られた知識での個人的な感想ながら、おおっ!という驚きだった。)
2つめはグレゴリオ聖歌・讃美歌と邦楽・琵琶楽そして筝曲(筑紫筝曲)との接触。トーレス牧師とロレンソ了斎そして諸田賢順(けんじゅん)の音楽的交流である。盲目の琵琶法師でトーレス牧師からグレゴリオ聖歌や讃美歌などの様々な西洋音楽的素養を学んだロレンソ了斎が筑紫箏曲創始者賢順(諸田賢順)と出会いグレゴリオ聖歌の影響を受けたオラショを賢順(けんじゅん)に伝えたという高田先生のご報告のくだりは刮目。詳しくはnoteをご覧いただきたい。

・16世紀のザビエルらポルトガル系の西洋音楽以前にも西洋音楽の日本伝来があったかどうかという解釈も含め「日本に初めて伝わった西洋音楽は何か」については諸説ある。(推論)
・もちろん、多くの音楽史の研究者の方々がご指摘されてきたとおり、日本における本格的な西洋音楽の始まりは明治期である、という意見は一理以上の重みがある。筆者はこれを軽視するわけではない。後述のとおり、明治期における本格的な西洋音楽への学びから唱歌をはじめ現在の日本音楽の骨格形成に揺るぎない基盤を構築してくださったものと筆者も考える。(私見1)
・他方、民族音楽も視野に入れた場合、16世紀のポルトガル音楽のアジア音楽への影響は、インドネシアのクロンチョン(Kroncong)が最も有名だが、日本のキリシタン音楽も影響は限定的にせよ1つの事例ではあろうかと考える。(私見2)
・さらに、15世紀以前、もっと古く古代音楽までの音楽の世界史を視野に入れたとき、果たして、仏教音楽などの古代インド音楽、古代中国音楽などを経由した西域音楽、さらには古代ローマや古代ギリシアなどなどの影響をどうとらえるか?という個人的な関心もある。(私見3)
・もっと深堀すれば、冒頭の旧石器時代のネアンデルタール人の笛などは果たして縄文時代の日本に伝わってなかったかという個人的な妄想もある(私見4)(※だってあれはネアンデルタール人の笛はフランスやドイツのオトだから、超ざっくりいえば西洋音楽だし…いや話がでかすぎるけど…すんません(;^_^A)

個人的には、先史時代のいわゆる世界史の古代文明の頃に、古代中国音楽を通じてすでに西域ペルシャなどから琵琶などの楽器が伝来がしていることも間接的な西洋音楽の伝来かもしれぬとも思う。なにしろローマからシルクロードを通じて中国そして日本という文化伝来のルートは無論時間はものすごくかかるが紀元前からあったのだろう。ついでに私見だが世界の音楽における分水嶺は古代インド。インド西部のドラヴィダ系はリズムがある音楽や楽器。タブラ(インド)→タンブール(アラビア)→タンボール(ラテン※西欧)→タンブール(カリブ中南米)。インド東側からは比較的リズム以外の音楽。→東南アジア→中国→モンゴル・韓国・日本。このうち後者が仏教音楽の声明・・・かと思う。なお、インドからなぜ直接中国に北上しないかというとヒマラヤ山脈があるため古代にはインドから直接中国というルートはかなり困難だった。8000m級の山越えは物理的に困難。ゆえに音楽の伝来ルートとしても考えにくい。つまり世界の民族音楽史を概観した場合、インド西とインド東で分類するのが1つの視点かと思う。もちろんあくまで私見だが。

(ザビエル来日前史略年表)
1513年ポルトガル人が中国に初渡来・明王朝との交易を開始
1522年明が海禁政策により屯門島を拠点とするポルトガル船を駆逐・広州交易を禁止(~1556年までポルトガルの広州貿易禁止)

(※余談だがポルトガル商人の来日背景には対中貿易の禁止も影響していたのではないかと筆者は個人的に推察する。)

1546年ホルヘ・アルヴァレス来日

:ホルヘ・アルヴァレス(Jorge Álvares)
:1546年(天文15年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長で商人。※筆者注「Jorge」も「Álvares」も一般的によくある名前。また「Jorge」はスペイン語発音では「ホルヘ」ポルトガル語とフランス語では「ジョルジュ」英語では「ジョルジ」など。なお、ザビエル研究の岸野久氏によれば、同姓同名のポルトガル人探検家(15C後半-1521年没)とは別人とのこと。岸野久 『西欧人の日本発見 -ザビエル来日前日本情報の研究-』吉川弘文館、1989年(参考)ウィキペディア

1547年ヤジロウがホルヘ・アルヴァレスとマカオ経由でマラッカへ渡航

:丘の上の教会(現在のセントポール教会史跡)でザビエルと面会か?
:ヤジロウ(弥次郎):1511年(永正8年)頃 – 1550年(天文19年)頃※諸説あり。

1548年ヤジロウがゴアへ渡航。当時ゴア在住のザビエルと面会。

:1540年代この頃までにザビエルはホルヘ・アルヴァレス『日本報告』等を通じて日本への渡航に関する情報収集。さらに1548年ヤジロウとの面会を通じて日本への渡航を頼まれたとのこと。(加えて当時のポルトガルと中国の交易が禁止されていたという貿易事情。さらにはスペイン国王との内政事情?)。これらを総合的に勘案し日本への渡航を検討したか。

1549年ザビエル来日

:フランシスコ・ザビエル(スペイン語 Francisco de Xavier)1506年4月7日ナバラ王国出身1552年12月3日広東省上川島※マカオの西南

1557年:明からマカオへの居留が認められた

(※また落書きだが。ここで1548ゴア・ヤジロウのエピソードからゴアトランスにつなぐ歴史ロマン的EDMプレイリストの連想ネタにも?)

日本音楽史年表のできごと

16世紀後半(1557年)キリシタン日本人信徒による聖歌隊が聖歌を歌う

※引治3年(1557)、府内にて日本人信徒による2つの聖歌隊が聖歌を歌ったイエズス会の書簡が「日本人が自ら歌った西洋音楽」の最初の記録、とされている。(参考)

日本音楽史年表のできごと

16世紀後半 賢順(けんじゅん)が筑紫箏(つくしごと)創始

日本音楽史年表のできごと

16世紀後半(1558年~70年頃)三味線の日本(本土)伝来か※

※三味線(しゃみせん)の本土伝来については諸説ある。(一般的には上記に記載のとおり16世後半(1558年~70頃)中国の元(げん)王朝時代に「三弦(さんげん)」と呼ばれた楽器が元の次の明朝時代に古琉球に伝わり三線(サンシン)となり、それが16世紀後半に琉球と日本(本土)の大坂商人などとの交易によって、堺の港周辺に伝わった…とされている。その後琉球から大和(堺)に伝えられ、三味線として普及していったと言われています。

(ただ、ここから先は各種文献を拝読した上での筆者の感想だが、前掲書(はじめての音楽史)などでは、三線(サンシン)が琵琶法師などにより演奏され、三弦や三線と異なるサワリなどの部分が改変された、つまり三弦・三線とは異なる新しい楽器ともいわれる。ここを掘り下げて考えてみると、上述のとおり14世紀末(1392年頃)古琉球に伝わった三線が、その後日本(本土)に伝わるルート(伝来経路)の可能性として、a)14期頃琉球王朝時代に奄美に伝わった歴史、2)16世紀の薩摩貿易独占、3)16世紀後半戦国時代の政治的駆け引き、という3点は少なくとも考慮に加えたうえで、それらの歴史の溶け込みもされた三線(サンシン)伝来の歴史を再考する必要があると考える。

(余談)1559年(永禄2年)鹿児島県伊佐氏郡山八幡神社の「焼酎」という漢字が書かれた最古の落書き
日本への焼酎の伝来については諸説あり。
15世紀(1400年代)初頭(室町時代)に西欧の貿易商によって琉球王国に輸出。
琉球王国は焼酎造りの技術を輸入。米を使った泡盛という蒸留酒を製造。
その後、薩摩国と徳川幕府への貢物として九州本土に泡盛が伝来。
1546年薩摩国に上陸したポルトガル商人ホルヘ(またはジョルジ)・アルバレス(Jorge Álvares※上述)が、米の蒸留酒を愛飲していたという記録が残る。

日本音楽史年表のできごと

16世紀末 三方楽所(がくそ)の制度

南方(奈良)と天王寺(大阪)らが協力し三方楽所(がくそ)として連携。雅楽再興の事例。(※上述のとおり前の15世紀後半頃からは応仁の乱(1467年)での京都の楽人(がくじん)離散により雅楽が衰退の危機にあったが、16世紀に雅楽が再興された。)

(備考)15世紀~16世紀ルネサンス音楽(参考)ウィキペディア

※私見だがもし西洋音楽史と日本史音楽史を比較するなら15世紀~16世紀のルネサンス音楽と日本の雅楽衰退から再興などを比較すると面白いかもしれぬ。(※ただ個人的にはそもそもルネサンス期の音楽は西洋宮廷音楽だけでなくむしろ宗教改革期のプロテスタント系の民衆音楽との相克が米国等の新世界へのポピュラー音楽のルーツにつながる1つの契機とも考えられるので、できればクラシックだけでなく当時のイギリスの農村ダンスやフランスの吟遊詩人そして東欧からフランス・スペインまで広く影響を及ぼしたロマ音楽などいわゆる民族音楽とも称される各国の伝統音楽も「クラシック(古典音楽)」として総合的に分析すべきと考える。もう令和なんだし明治以来のクラシック(西洋古典音楽)観つまり宮廷音楽たとえれば伊独仏英西の雅楽)だけがクラシックという狭い了見はささっとアップデートして武満徹さんや高田みどりさんらが戦後から切り開いてきた多様性な西洋音楽史における日本古典音楽の魅力再発信をぜひ音楽史の授業でもご検討頂きたいと個人的には思うのであります。)

日本音楽史年表のできごと

1582年2月20日 – 1590年7月21日、ローマ 天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)(1582年2月20日 – 1590年7月21日、ローマ)を通じて西欧にも伝えられた。
※キリシタン時代におけるキリシタン音楽については以下の論文に詳しい。(参考)「キリシタン時代の日本の音楽と西洋音楽の出会い」(金谷めぐみ著, 西南女学院大学紀要, 2016)🔗web検索結果 , ウィキペディア(文中リンク)等より筆者。

17世紀 安土桃山時代・江戸時代・鎖国

西暦1601年から西暦1700年まで
:安土桃山時代(1573年–1603年)の音楽2)
:江戸時代(1603年–1868年)の音楽1)
:鎖国期(1639年–1854年)の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

1603年 京都四条河原で出雲阿国(いずものおくに)がかぶきおどりを披露

日本音楽史年表のできごと

17世紀始め 地歌(ぢうた)の始まり※八橋検校(やつはしけんぎょう)

※地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。
地歌の始まり:17世紀前半(1624-1685年頃)八橋検校(やつはしけんぎょう)ら。摂津で三味線などの名手として活躍した八橋検校(やつはしけんぎょう)らがそれまでの三味線音楽を改良した。

なお、八橋検校(やつはしけんぎょう)は、三味線の名手だけでなく、その後江戸で筝曲(そうきょく)とくに筑紫流筝曲(つくしりゅうそうきょく)を習得し、さまざまな筝曲(そうきょく)の楽曲にも貢献したいわば近世の邦楽マルチミュージシャン。「近世筝曲の祖」ともいわれる。例えば現代の筝曲(そうきょく)の二大流派である生田流(いくたりゅう)山田流(やまだりゅう)の祖ともいわれる八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく)は、八橋検校(やつはしけんぎょう、1614-1685)らがそれまでの筝曲(そうきょく)に改良を加えたとされる。(参考)「地歌楽曲の歴史的変遷と作曲家」,地唄三味線おと遊びウィキペディア-八橋検校

日本音楽史年表のできごと

17世紀初頭、琉球王国が三線を宮廷楽器として正式に採用

日本音楽史年表のできごと

1629年 女形歌舞伎禁止

★1639年 鎖国令

日本音楽史年表のできごと

1642年 江戸城紅葉山の楽人の設置

(参考)前掲サイト(…組合「三振の歴史」)

日本音楽史年表のできごと

1652年 若衆歌舞伎禁止

★16世紀頃~17世紀半ば頃まで:日本音楽史における近世(前期)の音楽■おわり

★17世紀半ば頃~18世紀頃まで:日本音楽史における近世(後期:江戸文化爛熟期)の音楽□始まり

日本音楽史年表のできごと

1670年代 普化宗(ふけしゅう)の成立

普化宗(ふけしゅう)は、日本仏教の禅宗のひとつ。 9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。(参考)ウィキペディア-普化宗

日本音楽史年表のできごと

17世紀後半(1681~1688年頃) 八橋流箏曲(やすはしりゅうそうきょく)の始まり

17世紀天和・貞享八橋流:
八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく)の始まり:(※時期は諸説あり。一説には天和(1681-1684年)・貞享(1685-1688)年間の頃、八橋検校の晩年?)上述の八橋検校(やつはしけんぎょう)が筑紫流箏曲を基礎にして創始。(参考)コトバンク – 八橋流とは?

八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく)とは、八橋検校(やつはしけんぎょう)が雅楽の流れをくむ筑紫流筝曲(つくしりゅうそうきょく)を学んだが、筑紫箏(つくしごと)がやや雅すぎて民衆に親しみにくい点を改めた筝曲(そうきょく)の流派(八橋流十三曲と段物三曲の計十六曲)。現在の生田流(いくたりゅう)や山田流(やまだりゅう)の祖。八橋流は衰退にも見舞われたが、長野市松代町の真田志ん(さだなしん)とその門下生である八橋流筝曲保存会により伝承されている。(参考)国立情報学研究所HP,文化遺産データベース,八橋流筝曲、(参考2)筑紫流筝曲,同左

日本音楽史年表のできごと

1684 竹本義太夫が竹本座を設立(義太夫節・人形浄瑠璃)※のちの文楽のルーツ

竹本義太夫(たけもと・ぎだゆう)とは、江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃(略して「義太夫節」)の創始者。慶安4年〈1651年〉 – 正徳4年9月10日〈1714年10月18日)
竹本座とは、竹本義太夫が大坂道頓堀に開いた人形浄瑠璃(にんぎょうじゅるり)の小屋。『世継曽我』(近松門左衛門作)旗揚げ初演演目。
人形浄瑠璃とは、浄瑠璃と人形芝居をあわせた語りもの一種。竹本義太夫が祖とされる。
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)とは、江戸時代の人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。承応2年〈1653年〉- 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉

1684年竹本座の旗揚げ公演(座本:竹本義太夫の人形浄瑠璃の語りもの、作:近松門左衛門『世継曽我』)以降、「義太夫の人形浄瑠璃・近松作」(つまり「義太夫・近松」ペア。プロレスなら「義太夫・近松」組)の興行は評判を呼び、「新浄瑠璃」ともよばれ流行。(後述するが、1701年には『曽根崎心中』が大ヒット。また「豊竹座」と競うなど18世紀(江戸中期)は隆盛。19世紀にはやや下火になり、20世紀初頭には、明治初期は文楽座など2つ、大正時代には文楽座のみとなる。大正時代以降は「文楽」が、それまでの竹本義太夫らの義太夫・人形浄瑠璃・新浄瑠璃の流れを継ぐ語りものの伝統芸能として現在に至る。

※義太夫の魅力を伝えてくださってるサイトはこちら(参考)※別項に記載か?

日本音楽史年表のできごと

17世紀末(1695年元禄8年頃) 生田検校が生田流筝曲創設

17世紀元禄京都生田流(いくたりゅう):
生田流(いくたりゅう)筝曲(そうきょく)とは、17世紀末頃の元禄年間に京都の生田検校によりまとめられた筝曲(そうきょく)の流派。
17世紀後半(1680年代)に始まった八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく)が八橋検校(やつはしけんぎょう)の弟子である北島検校を経て、北島検校の弟子の生田検校によりアレンジされた筝曲(そうきょく)の流派(サブジャンル)。
生田流(いくたりゅう)の特徴:
・地歌曲(三味線)と箏の合奏
・角爪(□)斜め45度※三味線の技巧に対応
・楽筝(がくそう)※雅楽の筝の伝統を残している(その分音量は慎ましく控えめ?)
なお、演奏様式の来歴や流派は諸説あり(大阪の継山検校など)

日本音楽史年表のできごと

元禄年間(1688年から1704年まで) 歌舞伎で和事(わごと)と荒事(あらごと)が確立

17世紀末歌舞伎和事荒事:
荒事(あらごと):豪快で活気がある歌舞伎の表現様式。「見得(みえ)」や「六方(ろっぽう)」という力強い演技法、「隈取(くまどり)」という化粧法、など。誇張の様式美により元禄時代に好まれた豪放落雷な江戸の気風を表現。荒事の人気歌舞伎役者:初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)。超人的な力を持った主人公に扮し、自ら台本も書いた当代きっての人気役者兼歌舞伎作家。荒事の技法は、2代目市川團十郎によって完成され、市川家を中心として現在まで受け継がれる。

和事(わごと):京や大坂(大阪)で好まれた柔らかく優美な歌舞伎の表現様式。もとは高い身分であったが訳あって零落している「やつし」の色男が、なじみの遊女を尋ねる様などを繊細に美しく繊細に描く。
和事の人気役者:
・初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)やつし(身をやつした役)の初代坂田藤十郎。上方の歌舞伎役者。写実的で自然な芸風に秀でる。
・初代芳沢あやめ(よしざわあやめ):女方の初代芳沢あやめ女形・女方(おやま・おんながた)の芸を確立。

18世紀 江戸時代・鎖国

西暦1701年から西暦1800年まで
:江戸時代(1603年–1868年)の音楽2)
:鎖国期(1639年–1854年)の音楽2)

日本音楽史年表のできごと

18世紀前半 長唄の成立

日本音楽史年表のできごと

1734年 人形浄瑠璃で3人遣い創始

三人遣いとは1体の人形を3人で操る(遣う)こと。
・「主遣い(おもづかい)」人形のかしらと右手担当
・「左遣い(ひだりづかい)」人形の左手担当
・「足遣い(あしづかい)」人形の足担当

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1747年 常磐津節創始(語り物・浄瑠璃の流派)

18世紀延享常磐津節(ときわづぶし):
1747年(延享4年)初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が創設。師匠であり養父の宮古路豊後掾と共に語った豊後節をアレンジ。「オトシ」と呼ばれる独自の旋律技法を持ち、常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲として現代に受け継がれる。(参考)ウィキペディア

日本音楽史年表のできごと

18世紀中頃 山田検校が山田流筝曲創設

18世紀寛政山田流(やまだりゅう):
山田流(やまだりゅう)の特徴:
・歌もの多め※基本楽曲はどちらも八橋流筝曲(やつはしりゅうそうきょく)が源流なので古典は同じだが、山田流は比較的歌ものが多いか。
・丸爪(△)正面※丸爪といっても先端が尖った人爪のような形
・俗筝・音量大き目※生田流(いくたりゅう)より新しい流派。俗筝(ぞくそう)といってもより庶民的で新しいという良い意味。

★17世紀半ば頃~18世紀頃まで:日本音楽史における近世(後期:江戸文化爛熟期)の音楽■おわり

19世紀 江戸時代・鎖国・幕末・明治時代

西暦1801年から西暦1900年まで
:江戸時代(1603年–1868年)の音楽3)
:鎖国期(1639年–1854年)の音楽3)
:幕末(1853年–1868年)の音楽
:明治時代(1868年–1912年)の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

1814年 清元節(きよもとぶし)が創設(語り物・浄瑠璃の流派)

19世紀文化(1804年~1818年)清元節(きよもとぶし):
豊後節系統の叙情的で艶っぽい風情を濃厚なものとし、これに長唄の影響を受けて歌うような声ののびやかさや節回しの面白さを加味したもの(参考)ウィキペディア-清元節

日本音楽史年表のできごと

1820年 長崎出島でオランダ人がオペレッタを上演

日本音楽史年表のできごと

1826年 シーボルトが江戸にピアノを持参

日本音楽史年表のできごと

19世紀前半 宇田川榕庵が西洋音楽用語を翻訳

宇田川榕菴(うだがわ ようあん)参考ウィキペディア

★19世紀頃中頃~:日本音楽史における近代(前期)の音楽

Exercise of Troops in Temple Grounds

(画像)「嘉永七年(1854年)5月13日朝、ペリー提督黒船陸船隊訓練の図」(伊豆国下田了仙寺、黒船従軍画家ハイネ筆、ワシントン海軍博物館所蔵)(参考)🔗ウィキペディア-吹奏楽の歴史

日本音楽史年表のできごと

1855年 幕府が長崎で洋式軍楽を導入★日本の吹奏楽の始まりか(諸説あり)※

近代日本、明治期、日本の軍楽隊、日本の吹奏楽の歴史の始まりか※諸説あり

※日本の吹奏楽の始まりについては諸説ある。まず指摘しておかなければならないのは広義(もしくは隠れキリシタンという限定的な意味)での西洋音楽の始まりは上述のとおり、16世紀半ばのキリスト教伝来と同時期から始まっている。近年明らかになりつつある16世紀半ばから鎖国時代にも苦心惨憺・細々と伝えられてきたキリシタン音楽をどう音楽史的に再評価するか。これにより日本における西洋音楽の始まりは約3世紀も違いが生じる。ここはひとつの検討課題だろう。

他方、従来のとおり一般的な明治期の近代日本における本格的な西洋音楽の始まりはその重要性を失うわけではない。現在の日本における西洋音楽の直接的な礎は明らかに明治時代初期に育まれた歴史的事実である。したがって従来史観を大きく変えることではなくその前史として16世紀の西洋音楽との出会いがあったという認識が筆者の感覚である。

明治時代(1868年-1912年)の音楽

:明治時代(1868年–1912年)の音楽1)

日本音楽史年表のできごと

1869年(明治2年)横浜で薩摩藩青年が英国陸軍から軍楽を学ぶ(薩摩バンド)

1896年(明治2年)9月、横浜で、薩摩藩の青年30人が、イギリス陸軍歩兵軍楽隊(楽長ジョン・ウィリアム・フェントン)に軍楽を修習した。(薩摩バンド🔗)※筆者注:なお、日本の吹奏楽の始まりについては諸説あり。だが上述のとおり薩摩バンドより14年前の1855年に長崎で様式軍楽を導入しているため薩摩バンドが日本の吹奏楽の始まりという説は残念ながら可能性が低い、むろん薩摩バンドも明治初期の重要な音楽の先人であり、そもそも日本における西洋音楽のはじまりは16世紀なので、ここで長崎と薩摩が争う必要はない。いずれにせよ九州勢の新種取得の気風が日本の近代音楽史においても先進的であったこと。ひっては横浜や神戸などいずれの土地においても明治の先人の活動があったという多元的な芽が日本各地にまかれていたという歴史の多様性を包括的にとらえる多文化理解が日本の音楽史でも重要であろう。(つまりオールジャパンだからみなさんオラが土地が先だとかでけんかしないでくださいね、という話😅)

日本音楽史年表のできごと

1870年(明治3年) 太政官内に雅楽局設置

1870年(明治3年)11月7日雅楽局仮設置※雅楽局(ががくきょく)設立以降幾多の組織改編を経て現在の宮内庁式部職楽部※なお楽部は雅楽・洋楽兼修(参考)ウィキペディア-雅楽

雅楽局略年表(~宮内庁式部職雅楽局までの組織変遷)
1870年(明治3年)雅楽局
1871年(明治4年)式部寮雅楽課
1884年(明治17年)式部職
1889年(明治22年)宮内省式部職雅楽部
1907年(明治40年)宮内省式部職楽部
1949年(昭和24年)宮内庁式部職楽部
~現在に至る

(画像)1870年12月31日新政府の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治5年(1872年)、シカゴ滞在中に撮影。

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1871年(明治4年) 第1回海外女子留学生5名として永井しげ(瓜生繁子)らが米国音楽留学

※第1回海外女子留学生5名:黒田清隆(くろだきよたか)による明治初の本格的(約10年!)の官製留学。同留学については各5名のウィキペディア等を参照※以下各リンク
上田悌子(うえだていこ)※新潟・東京出身。15歳で海外女子留学生として渡米。病気のため早期帰国。しかし明治初期に米国留学を経験された海外留学生の先達の一人。
吉益亮子(よします りょうこ)※東京出身。15歳で海外女子留学生として渡米。病気のため早期帰国。しかし明治初期に米国留学を経験された海外留学生の先達の一人。
・山川さき(咲子、捨松)のち大山捨松(おおやますてまつ)※会津若松出身。満11歳で海外女子留学生として渡米。米国名門女子大学セブンシスターズのヴァッサー大学(Vassar Collage)卒業。学士号(Bachelor of Arts)を授与される。帰国後は幼少からの渡米により日本語を忘れており、また文部省の支援もなく、就職等に苦労。のち大山巌と結婚。「鹿鳴館の花」として明治期の鹿鳴館外交を支えた。また看護学校など日本の女子教育にも貢献。
・永井しげ(旧姓益田しげ、のち瓜生繁子)※東京出身。9歳で海外女子留学生として渡米。ホームステイ先のアボット家で早くから米国音楽教育にふれる。ヴァッサー大学音楽科(School of Music, Vassar College)ピアノ演奏コース入学。当時同大学音楽科は3年制だったため山川捨松のような学士号は授与されなかったが優秀な成績で音楽科を卒業(卒業証書授与)。ピアノのみならず声楽など幅広い音楽教育を修養。帰国後1882年(明治15年)3月2日付文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校)教授に就職。後述の幸田延(こうだのぶ)ら音楽取調掛の第一期生の指導を始め、明治期の日本の近代音楽教育の先駆となる。
・津田うめ(津田梅のち津田梅子(つだ うめこ))※東京出身。8歳で海外女子留学生として渡米。幼少からホームステイ先でピアノや英語などを学ぶ。私立女子大学アーチャー・インスティチュート卒業。帰国後は幼少からの渡米により日本語を忘れており、また文部省の支援もなく、就職等に苦労。以後2度目の留学など紆余曲折を経ながら近代日本の女子教育に奔走。女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者、日本における女子教育の先駆者(参考)ウィキペディア-津田梅子

(備考)山川捨松と永井しげが在学したヴァッサー大学はセブン・シスターズ(英語 Seven Sisters)と呼ばれた米国北東部名門女子大学7校(参考)ウィキペディア-セブン・シスターズ(大学)

日本音楽史年表のできごと

1871年(明治4年) 陸海軍の軍楽隊が発足

日本音楽史年表のできごと

19世紀後半(明治5年~明治17年頃)「文楽」(人形浄瑠璃)の流行
:1872年(明治5年)文楽座(大阪松島新地)
:1884年(明治17年) 御霊文楽座

明治文楽:
三代目文楽軒は、明治5年(1872年)、大坂松島新地に劇場を建て、文楽座と命名した。だが彦六座など対抗する劇場ができたため、明治17年(1884年)、文楽座は御霊神社の境内に移り、「御霊文楽座」として全盛を誇り、他の人形浄瑠璃の劇場は次々と潰れていき、唯一の人形浄瑠璃の劇場となる。以降、人形浄瑠璃を指して「文楽」と呼ぶことが多くなっていった。

日本音楽史年表のできごと

1874年(明治7年)式部寮雅楽課(前雅楽局)西洋音楽兼修

※1874年(明治7年)式部寮雅楽課(元雅楽局)以来日本政府の雅楽を担う楽師は西洋音楽も兼修となる(参考)「明治30年の宮内省式部職雅楽部」塚原康子, 東京芸術大学(※個人的感想:明治期より現在の宮内庁式部職楽部まで雅楽・洋楽(儀典音楽)を兼修!されているとのこと。改めて楽師の皆様の高度な技能に驚嘆するとともに、私見ながら雅楽継承をとりまく諸問題の懸案事項の一つとも考える。)

日本音楽史年表のできごと

1876年(明治9年)・1888年(明治21年)雅楽『明治撰定譜』選定

※明治撰定譜(めいじせんていふ):1876年と1888年の2回実施。太政官雅楽局により選定された雅楽の曲目と楽譜。雅楽の演目は基本的にこの明治撰定譜でまとめられた統一楽譜集を基礎とし、以て古来からの日本の雅楽の伝統を現代に伝えている。

世界の音楽史年表のできごと

1877年 蓄音機の発明

大衆音楽前史、蓄音機の発明

19世紀半ば 蓄音機の発明(略年表) 録音・再生機器の発明の歴史notes
1857年録音機の発明:フォノトグラフ(フランス語 phonautograph)
:フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル (Édouard-Léon Scott de Martinville) が発明したフォノトグラフ。フォノトグラフ (phonautograph) とは、音声を波形図に変換して記録する装置。音を記憶する装置の最古ともされる。ただし、録音のみで再生は不可(波形を記録できたが、音として再生はできず)。(参考)ウィキペディア-フォノトグラフ
1877年蓄音機の発明(録音再生機):フォノグラフ(アメリカ英語 phonograph、イギリス英語 Gramophone)
:1877年12月、トーマス・エジソンがフォノグラフ(蓄音機。とくに初期の蝋管(ろうかん)式のもの)を発明。音による空気の振動を針先から回転する円筒軸に巻いた錫箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式フォノグラフを発明した(ティン・フォイル一号機の製作)(参考)ウィキペディア-蓄音機
1887年円盤式蓄音機の発明
:エミール・ベルリナー(Emile Berliner)は亜鉛円盤に横揺れの溝を刻む蓄音機を開発して円盤(ディスク)式蓄音機が誕生。
1888年蓄音機の改良
:1888年にグラハム・ベルの研究所でティンター(Charles S. Tainter)らによる蓄音機の改良が試みられた。錫箔に代わり、記録媒体に蝋を染み込ませたボール紙の円筒(ワックス・シリンダー)を用いるものだった[3][4]。エジソンも蝋管を用いる改良機を開発。
1895年ゼンマイ式フォノグラフの発明。
:1895年から1996年にかけてゼンマイ(Spring motor)式フォノグラフが開発された(エジソン・スプリングモーター式蓄音機)。

※追って別稿に移動?

日本音楽史年表のできごと

1879年 文部省音楽取調掛設置

※音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)(参考)ウィキペディア-音楽取調掛
※伊沢修二(いざわしゅうじ)氏らが設立に奔走されたと伝えられる。(参考)ウィキペディア-伊沢修二

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1880年(明治13年)メーソン先生来日

※ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason)アメリカ合衆国の音楽教育者。1880年(明治13年)3月から1882年(明治15年)7月まで文部省音楽取調掛で西洋音楽を指導。明治初期に日本政府(伊沢が招聘したお雇い外国人の御一人。のちに唱歌を作曲する山田耕筰ら音楽取調掛の一期生らを真摯に音楽指導したと伝えられる。(参考)ウィキペディア

(※試験も含むがメーソン先生は「日本の唱歌の恩師」ともいえる音楽教師。1879年『小学唱歌集』を伊沢修二先生と共同で編纂。唱歌は和洋折衷により日本人が作曲した邦楽(山田耕作先生『荒城の月』など)。が、唱歌の一部の曲(例えば『蛍の光』など)にはスコットランド移民系の米国人だったメーソン先生が幼少からの愛聴歌であったスコットランド民謡を当時の日本の真摯な学生達にために音楽教材に選曲したことも影響しただろう。)

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1881年(明治14年)芝公園紅葉山に能楽社結成

※芝能楽堂(参考)ウィキペディア-芝能楽堂。「能楽」という言葉が一般化したきっかけとも(参考)コトバンク-能楽社

(能楽の語源は先の江戸時代文化・文政期(1804‐30)浅野栄足『能楽余録』があったが、この語が一般化したのは1881年能楽社設立がきっかけとされる。『能楽社設立之手続』〈前田斉泰ノ意見ニテ,猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ,能楽ト改称シ,因リテ能楽社ト名付ケ……云々〉。維新の動乱で衰退した能を援護し,興隆させようとする人々は,こぞってこの名称を用いたとのこと(参考)コトバンク

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1881年(明治14年)『小学校唱歌』刊行

文部省音楽取調掛編纂『小学唱歌集 初編』小学校師範学校中学校教科用書、明治14年11月24日付、高等師範学校付属音楽学校発行。同、『第二編』明治16年3月28日、『第三編』明治17年3月29日。

1882年(明治15年)3月2日瓜生繁子(うりうしげこ)文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校)教授に就職。幸田延(こうだのぶ)ら音楽取調掛の第一期生の指導を始め、明治期の日本の近代音楽教育の先駆となる。(リンク等は前掲)

日本音楽史年表のできごと

1881年(明治14年)5月 音楽取調掛の伝習生が管弦楽演奏(※日本初一般的なクラシック音楽オーケストラか※諸説あり)

※「日本初のオーケストラ」は諸説あり。

(画像)1887年(明治20)東京府『於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖(楊洲周延筆)』錦絵新聞※中央右長身女性が大山捨松さん。

日本音楽史年表のできごと

1887年(明治20年)東京音楽学校 (旧制)設立

※東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身。

日本音楽史年表のできごと

1888年(明治21年)小中村清矩『歌舞伎音楽略史』

※小中村清矩(こなかむら きよのり)は幕末・明治期の国学者。また帝国大学(現東京大学)教授や貴族院議員として古典講習科設置に尽力されるなど国学・近代日本史学の祖を築いた人物。律令・官職制度など多方面の古典を研究・著書多数。日本音楽史との関連では明治21年小中村清矩『歌舞伎音楽略史』が日本音楽の通史を試みた先駆的文献とされる。(参考)ウィキペディアコトバンク国会図書館HP小中村清矩等より筆者まとめ(※なお左記国会図書館HPの関連資料から小中村著書を探せる。『歌舞伎音楽略史』など一部書籍はデジタル閲覧可。詳しくは国会図書館HP参照。)

日本音楽史年表のできごと

1889年(明治22年)東京音楽学校卒業生幸田延が海外留学(~95)

※幸田延(こうだのぶ)(参考)ウィキペディア-幸田延

幸田延(こうだのぶ)先生明治・大正・昭和(戦前)音楽活動略年表
1870年(明治3年)4月19日東京下谷区仲御徒町(現上野周辺)生誕。幼少期より三味線・筝などを習う。
1876年(明治9年)東京女子師範学校附属小学校(現お茶の水女子大学付属小学校)入学。初代・山勢松韻に箏曲を師事。
1881年(明治14年)合唱指導で東京女子師範学校附属小学校に来校したメーソン先生と出会う。週末メーソン在勤中の音楽取調掛へ通いメーソン・中村専・瓜生繁子らにピアノを習う。
1882年(明治15年)東京女子師範学校附属小学校を卒業。音楽取調掛編入。音楽取調掛で伝習人となる。
1882年(明治15年)7月メーソン先生アメリカへ帰国。
1883年(明治16年)フランツ・エッケルトにヴァイオリンを師事。
1884年(明治17年)7月音楽取調掛卒業(第1回卒業生)
1884年(明治17年)8月~音楽取調掛卒業後は同研究科でお雇い外国人助手などを務める。
1887年(明治20年)音楽取調掛が日本唯一の音楽の専門教育機関として「東京音楽学校」へ改組。延は初代外国人教師のオーストリア人ルドルフ・ディットリヒにヴァイオリンを師事。ディットリヒ先生に海外留学を薦められる。
1889年(明治22年)4月~1895年(明治28年)11月:幸田延第1回文部省派遣留学生として米国・ウィーンへ音楽留学(計6年間)1889年4月:アメリカ留学(ボストン・ニューイングランド音楽院(1年間)
1890年:オーストリア留学(ウィーン楽友協会音楽院)ヴァイオリン、ピアノ、和声学、対位法・作曲などを学ぶ。
1895年:ウィーン音楽院在学中に日本人による初のクラシック音楽作品ともされる「ヴリンソナタ第1番変ホ長調」(3楽章・未完、楽譜を池辺晋一郎が補筆)を作曲。
1895年(明治28年)11月帰国:東京音楽学校助教授就任。1899年(明治32年)教授のち首席教授。1909年(明治42年)まで約14年間同校で音楽教育に従事。※幸田延先生の東京音楽学校教授時代には以下の音楽家を育成された:
瀧廉太郎(たきれんたろう)※1894年(明治27年)入学
三浦環(みうら たまき)※1900年(明治33年)入学
久野久(くの ひさ)※1901年(明治34年)入学
本居長世(もとおり ながよ)※1902年(明治35年)入学
山田耕筰(やまだこうさく)※1904年(明治37年)入学
・萩原英一※入学年不明
中山晋平(なかやま しんぺい)※1908年(明治41年)入学、ら
1909年(明治42年)欧米視察(合唱など)
1912年(明治45年・大正元年)東京府麹町区紀尾井町の自宅「審声会」開催。山本直忠[などにピアノ指導。以降、東宮職御用掛として皇族方に音楽を教授。
1918年(大正7年)10月17日「洋洋楽堂」
1937年(昭和12年)帝国芸術院設立時女性初音楽関係者として帝国芸術院会員。
1938年~1945年戦時中のため音楽活動が困難。
1946年(昭和21年)6月14日ご逝去

日本音楽史年表のできごと

1889年(明治22年)山葉(やまは)風琴(ふうきん)製造所設立

1889年設立「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうしょ)」とは、山葉寅楠(やまは とらくす)1851‐1916)により設立された合資会社(のちの「日本楽器製造株式会社」現在の「ヤマハ株式会社(YAMAHA)」の前身)。
※風琴(ふうきん)とはオルガン(とくにパイプオルガン)のこと。

日本音楽史年表のできごと

1891年(明治24年)10月中旬頃 キューバ(ハバナ)で南方熊楠が川村駒治郎ら曲馬師3名と出会う(熊楠は象使い弟子入り)~1892年1月頃まで同日本人一行4名はハイチ(ポルト-プランス)、ベネズエラ(カラカス、バレンシア)、ジャマイカなどに渡航。

日本音楽史年表のできごと

1893年 『君が代』ほか8曲の『祝日大祭日唱歌』を制定公布

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1895年 上田六四郎『俗楽旋律考』

日本音楽史年表のできごと

明治30年代(1897年~1906年)言文一致唱歌が流行

20世紀 明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代

★20世紀初頭~戦前:日本音楽史における近代(後期)の音楽

西暦1901年から西暦2000年まで
:明治時代(1868年-1912年)の音楽2)※明治45年(1月1日 – 7月30日)
:大正時代(1912年-1926年)の音楽※大正元年(7月30日 – 12月31日)
:昭和時代(戦前:1926年-1945年)の音楽

日本音楽史年表のできごと

1900年(明治33年)滝廉太郎が歌曲集『四季』など作曲

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1902年(明治35年)3世杵屋六四郎と4世吉住小三郎「長唄研精会」設立

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1905年(明治38年)田中正平が邦楽研究所設立

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1907年(明治40年)東京音楽学校に邦楽取調掛設置

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1910年(明治43年)~1911年(明治44年)文部省『尋常小学校読本唱歌』『尋常小学校唱歌』を刊行

日本音楽史年表のできごと

1910年(明治43年)3月「東京フィルハーモニー会」設立

※「東京フィルハーモニー会」とは三菱合資会社副社長岩崎小弥太らによって設立された団体。のち解散。設立当時は音楽鑑賞が趣旨だったがのち山田耕筰(やまだこうさく)らの管弦楽部を加え本格的な西洋音楽の演奏会も主催。1915年(大正4年)5月東京フィルハーモニー会管弦楽部第一回演奏会開催。
(※東京フィルハーモニー交響楽団とは別)

大正時代(1912年-1926年)の音楽

日本音楽史年表のできごと

1912年(大正元年)8月4日東洋音楽大学校長鈴木米次郎氏と東洋大学卒業生5名(波多野バンド)ら渡米(横浜港~サンフランシスコ行き東洋汽船「地洋丸」)
1918年(大正7年)まで波多野バンドは北米航路を中心に楽隊として演奏

・東洋音楽学校初代校長鈴木米次郎(すずきよねじろう)
・波多野バンド:東洋音楽学校卒業者5名:波多野福太郎(ヴァイオリン)、奥山貞吉(ビオラ)、田中平三郎(ヴァイオリン)、斉藤佐和(ピアノ)、高桑慶照(チェロ)。
1918年(大正7年)まで波多野バンドは北米航路を中心に楽隊として演奏。※メンバーは交代もあり

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1913年(大正2年)波多野鎌次郎(ヴァイオリン)、津田柳吉(ピアノ)らとハワイ行き「春洋丸」1919年(大正8年)頃まで約6年間船の楽士

※ただし期間中一時帰国もあり。大正4年5月23日山田耕作が率いる「東京フィルハーモニー会」管弦楽部の第1回演奏会に参加。(参考)「ハタノ・オーケストラの実態と功績」武石みどり,お茶の水女子大学,2006
※1913年金春館(こんぱるかん)開業。金春館は銀座の映画館(銀座初の洋画専門館)ブルーバード映画、ハタノオーケストラ楽隊などで知られた。1923年(大正12年)9月1日関東大震災で焼失。

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1913年(大正2年)山田耕筰がベルリンから帰国

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1915年(大正4年)5月23日山田耕作「東京フィルハーモニー会」管弦楽部の第1回演奏会。(この頃、波多野鎌次郎(弟)らによりハタノオーケストラ設立か)

※1916年(大正5年)、波多野福太郎は、東京西銀座金春館(洋画映画館)主人の勧めで下船。弟の主催していたハタノ・オーストラと合流。

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1918年(大正7年)~ 童謡運動

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1920年(大正9年)~ 宮城道雄、吉田清風、本居長世「新日本音楽演奏会」開催

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1926年(大正15年)新交響楽団設立(1951年NHK交響楽団に改称)

昭和時代(戦前:1926年-1945年)の音楽

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1929年(昭和4年)末『春の海』宮城道雄(箏曲家)作曲

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1930年(昭和5年)新興作曲家連盟発足

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1932年(昭和7年)東京音楽学校に作曲科設置。日本音楽コンクール始まる

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1935年(昭和10年)新興作曲家連盟が国際現代音楽協会に加入

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1937年(昭和12年)国際現代音楽協会で外山道子の作品が入選

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1940年(昭和15年)山田耕筰『夜明け』上演

★戦後~現在:日本音楽史における現代の音楽

:昭和時代(戦後:1946年-1989年)の音楽
:平成時代(1989年–2019年)の音楽

レコードの普及、音楽産業の振興、音楽の大衆化(ポピュラー音楽)、電気・電波放送、デジタル音声技術の発明

昭和時代(戦後:1946年-1989年)の音楽

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1945年(昭和20年)東京フィルハーモニー交響楽団再開

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1947年(昭和22年)NHKがラジオ番組『現代邦楽の時間』を始める

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1951年(昭和26年)入野義朗が12音技法による『7楽器のための協奏曲』作曲

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1953年(昭和26年)黛敏郎がミュージック・コンクレート作品を制作

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1955年(昭和28年)「NHK邦楽育成会」設立

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1956年(昭和29年)黛敏郎と諸井誠が共作で電子音楽「七のヴァリエーション」制作

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1957年(昭和30年)「20世紀音楽研究所」結成

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1958年(昭和31年)「邦楽四人の会」第1回演奏会

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1959年(昭和34年)リコーダー教育始まる

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1960年(昭和35年)小泉文夫『日本伝統音楽の研究1』出版

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1964年(昭和39年)「日本音楽集団」が第1回演奏会

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1966年(昭和41年)国立劇場が開場

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1967年(昭和42年)武満徹が『ノヴェンバー・ステップス』作曲

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1979年(昭和54年)国立演芸場が開場

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1983年(昭和58年)国立能楽堂が開場

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1984年(昭和59年)大阪に国立文楽劇場が開場

平成時代(1989年–2019年)の音楽

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1994年(平成6年)音楽振興法制定

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1996年(平成8年)武満徹が逝去

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1997年(平成9年)新国立劇場が開場

21世紀::平成時代2)・令和時代

21世紀:西暦2001年から西暦2000年まで:平成時代 1989年 – 2019年:令和時代 2019年 –

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2001年(平成13年)文化芸術振興基本法

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2017年(平成29年)文化芸術基本法

デジタル音声技術の普及

(次ページ)20世紀日本音楽年表(年代順ヒット曲)

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