1952年ヒット曲(昭和27年邦楽)流行歌・歌謡曲(ポップス歌謡、ラテン歌謡)など。
・1952年1月「テネシーワルツ」江利チエミ
・1952年4月S盤アワー
・1952年9月「チャンポンルンバ」暁テル子、「東京バイヨン」生田恵子
・1952年4月「ちゃっかりルンバ」久慈あさみ
1952年1月 江利チエミさんデビュー
1952年1月23日デビュー「テネシー・ワルツ/カモナマイハウス」(女性歌手)江利チエミキングレコード
江利チエミ(活動期間 1952年 – 1982年)
1952年4月放送ラジオ『S盤アワー』
S盤アワーは
1952年4月日本文化放送協会(文化放送)が開局当時から1969年11月まで放送されたラジオ深夜放送音楽番組。
1952年4月「ちゃっかりルンバ」久慈あさみ(作詞:村雨まさを、作曲:服部良一、編曲:服部良一、ビクター)
1952年7月雪村いづみさん歌手活動歌詞(プロ歌手として初舞台)※レコードデビューは翌年。1953年(昭和28年)4月「想い出のワルツ(Till I Waltz Again with You)」雪村いづみ(ビクター)。
1952年9月発売「チャンポンルンバ」暁テル子(作詞:井田誠一、作曲:佐野鋤、編曲:佐野鋤、ビクター)
1952年(昭和27年)「東京バイヨン」生田恵子
昭和27年(1952年)邦楽 懐メロ ヒット曲
紅白歌合戦出場曲(昭和33年ヒット曲など)
紅組(優勝)
荒井 恵子 橇は飛ぶよ
松山 恵子 だから言ったじゃないの
松島 詩子 喫茶室の片隅で
雪村 いづみ ヤキティ・ヤック
築地 容子 青い月夜のランデブー
藤本 二三代 夢みる乙女
織井 茂子 夜が笑っている
江利 チエミ さのさ節
神楽坂 浮子 三味線フラ
越路 吹雪 マ・プティット・フォーリー
大津 美子 銀座の蝶
二葉 あき子 夜のプラットホーム
藤沢 嵐子 ママ恋人が欲しいの
渡辺 はま子 長崎のお蝶さん
中原 美紗緒 河は呼んでる
奈良 光枝 晴着のかげに
石井 好子 ゴンドリエ
コロムビア・ローズ プリンセス・ワルツ
ペギー葉山 年頃ですもの
楠 トシエ 銀座かっぽれ
淡谷 のり子 ばら色の人生
水谷 良重・東郷 たまみ・沢 たまき アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド
島倉 千代子 からたち日記
宮城 まり子 ジャワの焼鳥売り
美空 ひばり 白いランチで十四ノット
白組
岡本 敦郎 若人スキーヤー
曾根 史郎 初めての出航
霧島 昇 白虎隊
小坂 一也 心にしみるブルース
三船 浩 夜霧の滑走路
神戸 一郎 銀座九丁目水の上
津村 謙 霧雨のけむる道
フランキー堺 男はよわい
三波 春夫 雪の渡り鳥
フランク永井 西銀座駅前
若山 彰 氷海越えて
林 伊佐緒 そっとこのまゝ
ジェームス繁田 ヴォラーレ
伊藤 久男 イヨマンテの夜
旗 照夫 碧い空
三浦 洸一 街燈
芦野 宏 風船売り
藤島 桓夫 凧タコあがれ
笈田 敏夫 オール・ザ・ウェイ
若原 一郎 おーい中村君
ディック・ミネ 私の青空
ダーク・ダックス ともしび
春日 八郎 別れの燈台
高田 浩吉 勇み肌千両男
三橋 美智也 おさらば東京
1952年 CMソング
「どなたになにを(福助)」古賀さと子(作詞:サトウハチロー、作曲:三木鶏郎)
(備考)流行歌から歌謡曲へ(1)
1950年代(昭和25年~昭和35年)は概ね「流行歌」という呼び名が主流だった時代。では戦後「歌謡曲」という呼び名がいつ頃から流行り始めたのか。厳密には定かではない。個人的にはおおむね1952年(昭和27年)「テネシーワルツ」江利チエミさんのヒット曲あたりを目安に置いてみる(※諸説あり)。
ジャンルといっても日本の場合は音楽様式(Style of Music)だけではなくレコード会社の分類上の区分や歌詞も含めた歌曲であつかう内容の印象、一般的な認知度などの呼び名または言葉の問題であることが多い。欧米や世界の音楽ジャンルでも似たような例はあるが、少なくともよくいわれる米国の音楽ジャンル≒音楽スタイルとの齟齬と「歌謡曲」「ポップス」などの様々な音楽様式を含んだ通りなとしての音楽ジャンルとの分類上の切り口の違いがそもそも悩ましい。日本の流行歌や歌謡曲だけでなくフランスでもラテンアメリカでも米国の音楽スタイルなどに影響され多くが音楽スタイル的には混成音楽ジャンルとなっているのが通例である。
日本では、明治初期の唱歌の頃から音楽様式的にはいわゆる和洋折衷が起こった。
流行歌も然りで戦前から洋楽的な音楽様式の影響はある。クラシック音楽の影響はもとより、例えば古賀メロディなどはのマンドリンなどの影響、服部良一先生はジャズ、ブギウギなど。
戦後の歌謡曲では、戦後日本のラテン音楽の先駆けとなった見砂直照さんは三人娘との共演などで1950年代にラテン歌謡の流行、60年代以降はリズム歌謡、ムード歌謡などなど今ではほぼ歌謡曲として括られる様々な音楽スタイルが時代と共に流行してきた。
いずれにせよ、流行歌も歌謡曲もなかなか音楽スタイルの違いでいつから始まったかなどを分類することが難しい。
そもそも「歌謡曲」というジャンル自体は概ね1920年代頃。戦前の明治末期から大正時代頃とされている。
日本でも最初の「歌謡曲」はシューベルトの「ます」などに代表されるクラシックの歌曲やオペラ歌謡など。明治時代の「はやり唄」は明治末期・大正頃には「流行歌」とされ、概ね戦前の「歌謡曲」は例えば藤山一郎さんの歌唱スタイルや、淡谷のり子さんが生前おっしゃっていたようによりクラシックの歌曲のようなニュアンスが強かった。
1940年代の戦中・戦後復興期でも概ね「流行歌」という呼び名が主体。
このように概ね流行歌が主体のなかで、戦後、現在の歌謡曲につながるきっかけのひとつとなったのは1952年(昭和27年)頃から流行したポピュラーソング(またはポピュラーミュージック、洋楽カバーポップスなど)が挙げられる。米国では1950年発売された「テネシーワルツ」パティ・ペイジらの洋楽ポップスのヒット曲は、レコード会社、および、新興音楽出版社や『ミュージック・ライフ』編集長の草野昌一さん(作詞家:漣健児)らの尽力により、おおむね2年後には日本語訳が付され日本でも発売。
なお、これらのポピュラーソングは洋楽カバーポップス、和製ポップス、歌謡ポップスなどとも呼ばれ表記揺れがある。当時の音楽雑誌ではおおむね「流行歌」と「ポピュラー(ソングまたはミュージック)」が邦楽の2大ジャンル。
ではポピュラーソングがいつ歌謡曲となったのかは上述のとおり定かではない。(つなり、レコード盤では「歌謡曲」や「歌謡」という表記自体は戦前からあり。また戦後もしばらくは「流行歌」が主流で「歌謡曲」という表記は筆者には探すのは難しい。)
SP盤(シュラック)とLP盤・シングル盤(ビニール盤)とのレコード生産形態でみれば、おおむねSP盤が流行歌で、なんとなくLP盤・シングル盤が歌謡曲っぽいイメージはあるが、これも厳密には最初のシングル盤は流行歌どころか端唄などの純邦楽が始まりなのでレコード盤の形態できっちり流行歌と歌謡曲を区分することも厳密ではない。(まあ、後追いでざっくり説明するなら一例にはなるかもしれないが。)したがって、戦後の歌謡曲の始まりがいつかは定義や特定が困難。
ただ、とはいえある程度の目安ぐらいは「いつ頃?」か知りたいので、各種参考文献も拝見してきたがそれも諸説あり。例えば、服部良一先生の作品群を日本のポピュラー歌謡曲のさきがけとし、1947年(昭和22年)発表「東京ブギウギ」笠置シズ子(歌手)などを戦後の歌謡曲の始まりとする向きもあるだろう。ただ、やはり東京ブギウギなどは流行歌と呼ばれていたことが多いようで。
ただ、そうなるとジャズ歌謡やブギウギ歌謡との分類が曖昧になる。個人的にはともに戦前の1920年代頃からあり、欧州クラシック歌曲から始まったポピュラー歌謡と、米国ジャズから派生したジャズ歌謡、さらに日本では概ね戦後生まれのラテン歌謡、ぐらいはざっくり分けておきたい気もする。もちろん、のちにジャズ歌謡もラテン歌謡もおおきく歌謡曲ということでざっくり括られる訳だが。
というわけで、諸説ありありだが、個人的にはおおむね1952年(昭和27年)「テネシーワルツ」江利チエミさんのヒット曲あたりを目安に置いてみる(※繰り返すが諸説あり)。
ここでは後追い表現で恐縮ながらざっくり「ポップス歌謡」としておく。(当時の語感としてはやや違和感もあるのは承知で単に便宜上他の「ラテン歌謡」「リズム歌謡」などのとの並びで筆者が書きやすいため。)
いずれにせよ、三人娘
