1912年(明治45年/大正元年) 流行歌、新民謡 (邦楽年表)
1912年(明治45年/大正元年) 「乃木大将の歌」(作詞:吉丸一昌、作曲:小松耕輔)
1912年(明治45年/大正元年) 「奈良丸くづし」(作詞:未詳、作曲:未詳)
1912年(明治45年/大正元年) 1912年「汽車」(作詞:不明、作曲:大和田愛羅)
1912年(明治45年)2月 「おぼろ夜」(作詞:近藤義次、作曲:弘田龍太郎)
1912年(明治45年)3月 (明治45年)3月『尋常小学唱歌 第三学年用』 文部省
1912年(明治45年)3月 「かがやく光」 文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「茶摘」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「青葉」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「友だち」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「虹」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「村祭」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「鵯越」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「雁」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「取入れ」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「豐臣秀吉」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「皇后陛下」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「冬の夜」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「川中島」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「おもひやり」文部省唱歌
1912年(明治45年)3月 「港」文部省唱歌
1912年7月30日(大正元年) 大正元年(1912年7月30日から1912年12月31日)
1912年(大正元年)11月 「木の葉」(作詞:吉丸一昌、作曲:梁田貞)
1912年(大正元年)12月 『尋常小学唱歌第四学年用』
1912年(大正元年)12月 「春の小川」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一)
1912年(大正元年)12月 「櫻井のわかれ」文部省唱歌(作詞:堀沢周安、作曲:不詳)
1912年(大正元年)12月 「靖國神社」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「蚕」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「藤の花」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「曾我兄弟」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「家の紋」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「雲」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「漁船」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「廣瀨中佐」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「霜」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「八幡太郎」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「村の鍛冶屋」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「雪合戦」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「つとめてやまず」文部省唱歌
1912年(大正元年)12月 「橘中佐」文部省唱歌(作詞:岡野貞一、作曲:不詳)
1912年 大正元年 明治45年邦楽
1912年 ハタノオーケストラ
1912年(明治45年)1月1日 – 7月30日/(大正元年)7月30日 – 12月31日)
1912年7月30日大正の改元(月日は一致)
明治45年(1月1日 – 7月30日)
大正元年(7月30日 – 12月31日)
1912年 ハタノオーケストラ
ハタノ・オーケストラは東洋音楽学校卒業生からなるバンド。外国航路や戦前のポピュラー音楽やむ衛星が伴奏、ジャズなどの日本の黎明期に活躍し、洋楽の日本への普及に多大な貢献をした伝説的な戦前の名門楽団バンド。
※「日本初のダンスバンド」については諸説あり。むろんハタノオーケストラは1912年大正元年頃からポピュラー音楽を演奏しのちの銀座金春館(こんぱるかん)や1920年代の横浜鶴見の花月園舞踏場などでジャズの初期の演奏で大いに活躍された名門バンドである。ただ少なくともハタノ・オーケストラが日本初のダンスバンドという記述は誤り。
ダンス音楽すなわち舞踏音楽の歴史は当ブログの「音楽年表(日本)」でもまとめているが日本の舞踏音楽の歴史は古く、例えば純邦楽のルーツである大陸や朝鮮半島から伝来した音楽も舞踏音楽の一つでありそこまで含めればすでに7世紀頃までさかのぼる。
また、いわゆる西洋音楽由来の宮廷舞踏音楽たとえばいわゆる社交ダンスの祖である鹿鳴館時代のボールルームダンスの音楽も19世紀の明治時代初めごろから主に軍楽隊により演奏されている。
19世紀半ば(1860年代頃)幕末にマーチなどの行進曲については海軍の楽隊がすでに幕末に演奏。
19世紀末(1890年代)明治20年代のいわゆる鹿鳴館時代には、社交ダンス的な舞踏音楽も鹿鳴館時代に陸軍の楽隊が舞踏音楽を演奏したという記録が残されている。(例)鹿鳴館時代の楽団および演奏曲の例:
1893年(明治26年)11月23日「三大節関係雑件 天長節之部」陸軍軍楽隊四元義豊(よつもと・よしとよ)指揮舞踏音楽9曲(演奏曲目:「戴冠式行進曲」マイアベーア、「ローエングリン」ワグナーの前奏曲、邦楽の祝儀曲、「チロル民謡の主題による変奏曲」レオン・チック、幻想曲など9曲)外務省記録「三大節関係雑件 天長節之部」1893年(明治26年)天長節(11月23日)開祝賀行事「演奏曲目」(参考リンク)🔗レファレンス事例2010/12/18:鹿鳴館の舞踏会で演奏されていた音楽の曲名はわかりますか。
「同じく在野の三越少年音楽隊とともに日本交響楽協会の演奏者を輩出した。」
日本交響楽協会?いつ?
1912年結成「波多野バンド」波多野福太郎(兄)が主宰。外国航路汽船で軽音楽などを演奏。
?年結成「ハタノ・オーケストラ」波多野鑅次郎(弟)が主宰。
1912年(明治45年/大正元年)波多野バンド:横浜港からサンフランシスコ行きの東洋汽船地洋丸に、東洋音楽学校卒業者である波多野福太郎(ヴァイオリン)、奥山貞吉(ビオラ)、田中平三郎(ヴァイオリン)、斉藤佐和(ピアノ)、高桑慶照(チェロ)の5名と、東洋音楽学校初代校長鈴木米次郎の計6名が乗船。
1912年頃から1916年頃までの間に、ハタノ・オーケストラが結成。波多野鑅次郎(波多野福太郎の弟)が主宰。帝国ホテルなどで演奏。
1915年(大正4年)無声映画音楽の伴奏(They played accompaniments to silent films.)
1916年(大正5年)波多野福太郎(兄)は、東京西銀座の金春館(洋画専門館)の館主の依頼で船を下船。弟の主催しているハタノ・オーストラと合流。
金春館のテーマ曲「金春マーチ」(作曲:波多野福太郎・奥山貞吉)
1918年(大正7年)ハタノ・オーケストラは無声映画音楽伴奏などで人気を得る。(1918: The band became popular and played during film intermissions.)
1918年(大正7年)波多野バンドは北米航路を中心に東洋汽船地洋丸楽隊として演奏
1921年(大正10年)1月ハタノ・オーケストラは、経営者が替わった金春館を離れ、横浜鶴見の花月園舞踏場に進出、舞踏(ダンス)音楽を演奏。メンバー編成、中村鉱次郎(コルネット)、岡村雅雄(フルート)、前野港造(クラリネット・サックス)、寺尾誠一(ベース)、加藤福太郎(ピアノ)、仁木他喜雄(ドラム)ら。※
1922年(大正11年)波多野福太郎がさらに大きなオーケストラを編成。
(1922: Fukutarō Hatano organized a larger orchestra.)
ハタノ・オーケストラ出身の有名な音楽家(演奏楽器別)演奏家
(ヴァイオリン奏者)
波多野福太郎、波多野鑅次郎、福田宗吉、田辺千次、黒柳守綱、前田璣、高桑慶照、中川三郎、安藤福太郎、
(フルート奏者)
宮田清蔵、高麗貞道、岡村雅雄、
(クラリネット・サックス奏者)
岡本末蔵、前野港造、石川利三郎、
(オーボエ奏者)
阿部万次郎
(ピアノ奏者)、
山本清一、加藤福太郎、奥山貞吉、和田肇
(ホルン・コルネット奏者)
吉田民夫、篠原茂男、中村鉱次郎、
(トロンボーン奏者)
相沢秋光、木島勇吉、大津三郎、北川嘉納、
(ベース奏者)
大田集、寺尾誠一、木下乙弥
(打楽器奏者)
高見友祥、仁木他喜雄
(参考文献)ウィキペディア、『ハタノ・オーケストラの実態と功績』武石みどり